左手ちゃんの日記

すぐしにたくなっちゃう人の日記

精神科に行ってきた。2

こんにちは。左手ちゃんです。

お昼に記事を書いているということは、タイトルからもお察しの通り、そうです精神科2回目です。

 

精神が不安定な原因がなんとなくわかりました。貧血です。

なぜ気づいたかというと、爪に横線が入っており(スプーンネイルと呼ぶらしいです)、貧血だとは思っていたけど、やはり徐々に進行していたらしく、体に異常が現れたことで流石にやばいと思い、飲みやすそうな鉄分のサプリを探しました。

鉄分不足とは恐ろしいもので、これが不足すると精神が落ち込んだり、胃腸の調子が悪くなったりします。

ここ最近ずっと続いていた胃腸の不調(繰り返される嘔吐など)は、どうやらそれが原因だったようです。

 

なので、ちゃんと毎日2錠鉄分のサプリを継続して飲み続けることで、大きな精神の不調の波が無くなりました。

 

まだ一瞬の波は来ますが、家族に関することのみ、家族から連絡が来た時や他人に家族について聞かれた時など、そういう時に家で涙が止まらなかったり、急に過呼吸を起こしたりするぐらいで、毎日のように続けてずっと泣いているようなことは無くなりました。

 

身体的なことが原因でうつになることって、結構あるみたいです。(先生に聞いた)

 

ただ、先生も仰っていましたが、元気な時でも頑張りすぎると(何かのきっかけで落ちた時に)反動が来ることはあるみたいで、つい昨日も家族から連絡があり、しにたくてしにたくてたまらなくなって、包丁の棚を開ける前に止まりましたが(進歩)、元気な間にも蓄積されていた小さなストレスが急に吹き出すようなことはあるようなので、それは気をつけてくださいとのことでした。

(調子の良い期間にも、頑張りすぎず、適度に休む訓練をした方が良いらしいです。)

 

職場の言いやすい人には通院を報告したこと、周囲が私の負荷を思っていたよりも気にかけてくれていたこと、そういったことを報告し、今回は終わりになりました。

 

前回処方された漢方ですが、飲んでも吐いてしまうことがあり、合わないということを伝え、今回はお薬はなしで様子見しましょうか、ということになりました。

 

病院が終わったあと、自分のご褒美に近くのケーキ屋さんに寄ってロールケーキを買いました。お店のおばあさんが、「明るくなってきましたねえ」というので、「雨が止んだので嬉しいですね」と返して、なんとなく嬉しくなりました。

 

雨が止んだら夏が来ます。

気持ちのよい夏を迎えられるよう、1歩ずつ幸せに向かって歩きだしました。

 

 

死にたい気持ちは一過性

こんばんは。左手ちゃんです。

ストレスと闘いながらぼちぼち生きています。

 

死にたい気持ちは一過性です。

平たくいえば発作のようなもので、それは突然襲いかかってきて、コントロールがききません。

 

死にたいという気持ちは、全てをどうでも良くさせる力があります。死ねば全て終わりだから、死んでしまえば未来のことを考えて不安にならずに済む、そんなことを思うのです。

 

私は何度か遺書を書いたことがありますが、その内容はどれも共通していて、

・葬式形式の指定

・家族への恨み

・私は宗教を信じていないこと

・遺産相続者の指定

・友達への感謝と謝罪

・私と関わったすべての人に、私が死んだことは私が原因なので、私のことはすぐに忘れて幸せに生きて欲しいこと

が共通事項でした。

 

ただほんとうに、死にたくなっている時って全てがどうでも良くなっているはずなのに、遺す人達のことを気にしている時点でどうかと思いますが…。

 

ただほんとうに死にたいと思っている時というのは、どちらかといえば、「死ななければならない」と思い込んでいるという表現の方がニュアンスが近いです。

 

私は間違った存在から生まれた間違った存在、誰からも無償の愛を受け取れず、いつまで経っても不出来な存在であるから、私は生きている価値がない世界には不要な存在だと。私が私自身のことを不幸だと感じることは私のせいであるから、それならば死んでしまった方がよいのだ、と、そういう気持ちなわけです。

 

今これを書いている私は、死にたい気持ちから少し離れたところにいるので、そのようなことは考えないわけですか、しかし今こうして、文章を書いている最中にも、やはりそうでなければならないと思い込みそうになるので、言葉の力というのはとても恐ろしいものです。

 

やまない雨はない、そういう言葉がありますが、死にたい気持ちもいつかは終わりを告げます。それを信じて生きていくしかないのです。

 

もしかしたらまた、他の日には死にたい気持ちが近くにいる日が来るかもしれないけど、それでも最近はだんだんと小さくなっているのを感じます。

 

書くことで思い込むというのは大事なので、気持ちをゆるやかに保ちつつ、死にたい気持ちの総量を少しでも減らせるといいなという気持ちを込めて。おやすみなさい。

 

 

不完全を認めること

どうも、左手ちゃんです。

最近仕事のストレスで精神科で貰った薬を吐きました。吐いたら意味ないのでやめようね。

 

今日のタイトルにもある通り、不完全を認めることの必要性についてです。

私はよく思考が極端だと言われます。

 

どのくらい極端かと言うと、100と0の間がありません。

数字で表してもあまりピンと来ないと思うので、具体的に言うと、1人の人(恋人)に愛されていない(もしくは愛されているが、自分に対して100%の愛情を注いでいる訳ではない)ことで、世界の全員から愛されていないと思い込むくらい極端です。

 

上の具体例に関しては、自分の中で、それは自分のことを好きでいてくれる友達の好意を無かったことにし、つまりはとても失礼なことなのでやめる、という結論で落ち着きました。

 

また別の具体例を出すと、誰かのどうしようもない1つの欠点を見つけてしまったとして、それまでその人のことを友達だと、好きだと思っていても、その人の全てを嫌いになってしまうということがあります。

人間欠点は誰にでもありますから(というか欠点と長所は表裏一体なので)、どう考えてもこの思考は破綻していて、だから自分のことも嫌いになってしまいやすいのですが、とにかく自分は、完璧ではない、中途半端を認めることがとても難しく感じます。

 

そのため、私は誰かに仕事を任せるということがとても苦手です。

こないだ試しにやった性格診断テストでも、「任せ力」が低いという結果でした。合ってるね。

 

「誰かに仕事を任せるよりも、私がやった方が早い(もしくはミスがあっても、把握出来ているのでフォローが楽)」という、まーーー典型的な完璧主義&傲慢やさんなわけですが…。

 

今日、「上司さんのフォローお願いね」と上司の更に上の人から頼まれ、今回もまた「やります大丈夫です」ムーブをかましてしまい、勝手に追い詰められるいつものやつをやってしまいました。

最近どうやら、自分は仕事の処理能力が人より早いということがわかってきました。なんの仕事をしても、「早いね」と言われることが大半なので、おそらく客観的に見ても早いのでしょう。(品質はわかりませんが…)

 

人より早いと何が起きるかと言うと、

仕事を任せられる→やります大丈夫ですムーブを繰り返す→自分の許容量を超える→死

という構図が簡単にできあがってしまいます。

 

結局仕事の処理能力が自分より低い人間のフォローも、やりますムーブをかまして仕事を抱え込んでしまう上、1度ひきうけた仕事を誰かに少しずつ任せたりなんてこともできず(仕事の処理能力が低い人のフォローなので、任せると修正作業等が発生するリスクもある)、いつも仕事を抱え込み1人で死んでしまいます。

 

そして、自分の許容量を超えた結果、仕事に行きたくなくなりますが、自分の中の極端図式では、「仕事に行かない自分=ダメな自分=死んだ方が良い」という感じになり、またいつものダメなループに入ります。

 

仕事に行かない自分を認められれば、自分が受けている好意を認められれば、1箇所の欠点だけで人を嫌いにならず良いところも悪い所も認めてゆければ、私はきっともっと楽に力を抜いて生きれるのでしょう。

 

不完全を認めることがなぜこんなに難しいのかはわかりません。うつ病になりやすい人って言うのは、完璧主義が多いとか聞くけど、全くその通りだと思います。

 

おそらく、他人に怒る隙を与えたくないというのが1番の理由だとは思いますが…。

それと同時にやはり、許したり認めることが苦手なことが大きいようです。

それも全て認めるとか許すとかではなく、きっと少しづつやっていって、今の自分のありのままを受け入れることができたら、今よりもっと息がしやすくなる気がします。

 

とにかく、不完全でも認めていくこと、少しずつやって行けたらいいなと思います。おやすみなさい。

 

 

 

精神科に行ってきた。

こんにちは。左手ちゃんです。

前回の記事で予告していた通り、精神科へ行ってきました。

 

結論から言うと、初診の段階では、明確な診断は下せないそうです。

 

可能性として、不安障害の中のどれかに当てはまるのでは、という話でした。

もしくは、双極性障害Ⅱ型。(これは、3〜4日躁状態が続くそうなので、私の場合そういった周期的なものでもないのでは、ということでした。)

 

パニック障害を疑ったのですが、パニック障害の症状とも少し違う感じらしく、パニック障害というと、週に1回くらいのペースで過呼吸が来るということのようなので、それとも違うのでは…という…。

 

私が期待していた「ここに行けば今すぐなんとかなる」か、「とりあえず病名を知りたい」という希望は得てして叶わなかったわけですが、とりあえず初回は様子見で漢方を出しましょう、という事になりました。

 

とりあえず先生に家族の話やこれまでの色々を聞いてもらい、つらかったね、とか、そういう言葉をかけてもらって、何度も話してる途中で泣いてしまったりして、それでも終始先生はものすごく冷静に話を聞いてくれました。淡々とした語り口の先生で、なんとなく安心感がありました。

 

あと、自分が思っていたよりも、自分の状況はあまりよくある状況ではないようで、そこに1番驚きました。

割と精神病を患う人の多くは家庭環境が原因で、精神科に通院する人も、そういった家庭環境の人が多いのかと思い込んでいましたが、先生の反応を見る限り、うちの家はそこそこ特殊なケースのようでした。先生、若干引いてた。

(なんとなく、質問の傾向からするに職場でのストレスが原因で、という人が大半っぽい)

 

ネットに溢れてる情報だけを拾って、よくある事だと思い込もうとするの、良くないですね。教訓。

 

何度か他人に説明するうちに、(だいたい相談相手も決まっているので)相手が前提条件を理解していた上での相談に慣れてしまっていて、うちの家がかなり複雑で色々あることを忘れていて、もう少しまとめてくればよかった、という気持ちになりました。

 

先生が最後に総括してくれたのですが

・家庭環境がなかなか複雑でずっとその対応に追われていた

・ハラスメントで異動になったり父親が死んだり彼氏と別れたりで色々ありすぎた

・しかしそれをずっと我慢してきたため、症状が強くなってきていた

・まずは少しずつ休むことが必要

・難しいかもだけど病院に行ったことをまずは上司に言ってみる

ということでした。

 

診断を下すことよりも、心を安定させていくことがあくまでも目的だから、とりあえず漢方は副作用も少ないし試そうか〜ということで、飲んでどうなるかわかりませんが、とりあえず経過を見て、次回の診察でまたお話しましょうという感じです。

 

なんか、気持ち的には第三者に話を聞いてもらえてすっきりしたような、診断が出なくてもやもやしたような、よく分からない気持ちです。

 

今朝、檻を壊す夢を見ました。

誰かが檻に閉じ込められていて、私はそれをハンマーで叩いて壊していました。

(夢の中だからあれだけど、冷静に考えて中に入ってる人大丈夫だったんだろうか…。)

 

私はいつも夢占いをするのですが、檻を壊す夢は、苦しい状況から抜け出そうとしている、もしくはもうじき抜け出すことが出来る予兆を指しているそうです。

 

きっともうすぐこの苦しさから、解放されていくことができるのではないかな、という淡い希望を抱いて、疲れたので昼寝します。おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正しさについて

こんばんは。

家帰ってから0時まで4時間くらい死んだように寝てました。というわけで明日も仕事ですが、そんなに寝ても仕方ないのでブログを更新しています。

 

いきなりですが、今回は「正しさ」についての話です。

私は、本当に正しいことなんてこの世に何一つないと思って生きてきたし、論文でもそう書きました。

誰もが正しいと思い込んでそれ通りに生きている法律でさえも、国によって違いがあるし、価値観は人それぞれ、本当に正しいとか間違っているとか、そういうことは実際に存在しないと。

 

おそらくそれは事実として間違いではないにしても、ここで大きな誤解をしてしまっていたことに最近気づいたのです。

(最近気づくこと多すぎだし気づくの遅くね?)

 

正しさは存在していないわけではありませんでした。

個人個人の中に、たしかに正しさは存在しています。

それは価値判断基準と呼ばれるもので、きっと誰しもが、「これは正しい/正しくない」を直感で判断しているはずです。

正しさって、その人が人生において何を優先しているかということでもあると思います。

「楽しい」に向かって生きる人、お金(社会的価値)が大事な人、愛が大事な人、仕事が大事な人、などなど…。

 

私にはそれがありません。

どういうことかと言えば、他人に流されやすいというレベルではなく、他人に正しさや価値判断基準を完全に依存している、ということです。

 

私の「正しさ」は、他人の正しさをつぎはぎして出来ているので、とても脆いです。

誰々さんと誰々さんの正しさをぶつけて矛盾が生じたときに、とても苦しいし、自分がその誰々さんの正しさにそぐわなかったことをしてしまった場合、自分が正しくないということになるので、自分は間違った存在だと、思い込みやすいというわけです。

自分の中のエラーによるストレス、感じすぎじゃないか?バグが多いな…。

 

本当はきっと、みんなが皆生きていく上で誰かと誰かの正しさをぶつけながら、その中で自分の正しさ、芯とも言えるものを確立していくんでしょう。

だから喧嘩もするし、戦争も起こすわけです。

しかし私はおよそ自分の正しさというものを持っていないせいで、上手く喧嘩が出来なくなってしまっていました。

自分の正しさがなく、そのうえ自信がなく卑怯なので、悪口や指摘は相手に対面で言うことがとても難しい。

喧嘩をするということは人同士の正しさをぶつけるということで、喧嘩ができる人たちは正しさをすでに確立している。自信があるとか気が強いとか、そういう言い方もできますが…。

 

喧嘩が出来ないにしても、意見を言い合うとか、建設的な議論をするとか、もしくは自分の中で正しさが決めてあれば、線引きができるから、喧嘩しなくとも自分が傷つかないように防御したり(無視するとか)いくらでもやりようはあると思います。

 

自分の正しさをどうやって決めるか、他の人がどうやっていつまでに確立してきたのか、それはきっと小さい頃の環境や人間関係にあると思うのですが、どうもそうなると、私は人生詰んでいるな感しかない。

 

きっと正しさを持っている人達は、無意識のうちにそれがあるから、そういういつまでにとか、細かいことは聞いてもわからないとは思いますが…。

 

もしわかる方がいたら教えてくださいね。

情報提供待ってます。

 

正しさがどのようにして作られるのか、なぜ私にはそれがないのか、正しさを持っている人と私の違いはなんなのか…。

 

普通に日常生活を送っていてもこうして深く考えてしまう癖があるので、だから疲れそうだねとか言われるんだと思うけど。

社会生活向いて無さすぎる芸人なので、お金に困らないなら哲学者として生きていきたかったな…。

 

今週はやっと精神科に行ってくるので、そこで自分の正体をもっとちゃんと知れたらいいなと思っています。

 

今日はここで終わりです。

いつも読んでくれている人たち、ありがとう。おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

衝撃の事実

こんばんは。また来ました。

昨日は許すことについて書きましたが、今日はその延長線上にある、諦めることについてです。

 

私はどうやら諦めることがとても苦手なようです。

嫌いな人、苦手だと思う人に対しても好かれようとします。苦手なことについて全力で向き合おうとして、いつも結果潰れてしまうわけですが…。

 

万人に好かれようとすることはとても苦しく、全てを等しく諦められないということは、全てに等しく力を注いでしまうということです。

誰かに期待して、また裏切られて失望して、その振り幅がとても大きく、しかし毎回毎回学びません。

なぜか、今度こそと思ってしまうのです。

 

この間「ああもう人生の全てがつらい、やっぱり死ぬしかないんだ」と性懲りも無く死にたくなっていたわけですが、そうして絶望してすぐあと、人のちょっとした優しさに触れて、やっぱり人間は皆優しいんだと思いました。

 

思考が極端すぎるというところもありますが、優しさが1あって、それに触れると優しさが100だと思い込むため、結局優しさは自分が触れられるぶんの1しかないので、勝手に落胆し絶望する、という流れになります。

 

何度繰り返してもなお、私はなぜ諦められないのでしょうか。

 

聞きました。他人に。

 

そうしたらなんて返ってきたかと言うと、

「左手さんはさ、人が好きなんじゃない?」と。

 

私はそんなはずは無いと思いました。

だってだって、今までずっと苦しくて悲しい思いをして、何度も何度も人に裏切られて、何度も人に失望してきたはずです。

 

勝手に期待して頑張って、現実は理想とは違うと散々思い知ってきたはずなのです。

 

だから私が人間のことが好きだなんてことは、全く理論としては間違っているはずのことです…。

 

でも、悲しいことにそれしか理由が見当たりませんでした。

 

私にハラスメントを働いたキモいオジさんにも、私を叩いた母親も、私を殴った兄も、私をこき下ろした兄も、私をこういう風にした父親だって、全て諦められないから執着している。

 

もしかしたらあの時こうしていれば、という思いが溢れて止まらなくなるときがある。

 

あの時こうしていたら、この人は変わったかもしれない。この人にはこういう態度をとってしまったけど、可哀想だ、今どうしているだろうか。そういう同情が少しでもあるのです。

 

その人の話によれば、普通は嫌いだと思ったら切り捨てて、どうでもいいと思う、ということらしく、私はそれに対して大きな衝撃を受けました。

 

どうして可哀想と思うの?その人の自業自得なんだったら、クソ野郎だったな、で終わりでしょ、らしいのです。

 

私は自分のことを、とてもばかだなと思いました。なんでだろうとも思います。それでも諦めきれないのは、人間の善性や可能性を、どこかで信じているからでしょうか。

 

私はどれだけ傷ついてもどうして学ばないのでしょうか。親からもふつうに愛されることが出来なかったのに、なぜ人をこれほどまでに好きでいられるのか。諦められないのか。

 

私は自分が自分で怖くなりました。

でも私は、人が好きな自分も、少しずつ認めていこうと思います。

 

許せないのは相手の可能性を信じているから。

話せばわかると思っているから。

しかし時には切り捨てて前に進むこと。

切り分け、諦め、切り捨て、次へ行くこと。

 

全部忘れずに、認めた上で、置いて捨てていこうと思います。矛盾しているけれど、自分が精神的に健康でいるためには、多くを抱え込まないことが重要だから。

 

 

 

 

許すということ

こんばんは。左手ちゃんです。

色々ありますがなんとか生きています。

今日は大層な題名ですが、いつも通りたいした話ではありません。

 

友達と、就活の時にクソほどやりまくった性格診断テストのようなものをやってみようか、という話になり、それ系の診断をやってみたのですが、自分には「許し力」が圧倒的に足りていないようだ、ということがわかりました。

(ちなみにどの程度足りていないかと言うと、棒グラフで各数値が伸びているのですが、「あれ?画面のゴミかな?」と思うほど、ありませんでした。多分最小値。)

 

許すことが苦手であることはなんとなく感じてはいましたが、まさかこれほどとは思いませんでした。

 

最近仕事で関わっている上司の1人が仕事ができるとは言えないような人(オブラート)で、私はそれでいちいちイライラして、でも言い方がきつくなってしまっている自覚があって、自分の怒りをコントロールするということについて調べていました。いわゆるアンガーマネジメント、というものです。

(大抵、怒りのピークは6秒、とか言ったようなことが書いてあるのですが、6秒で怒りが収められたら警察も戦争もないだろ、と思うくらいには許し力が低いです。)

 

怒りをコントロールするということは、許すということでもあると思います。そもそも寛容な心があれば、怒りも発生しないはずです。

 

しかしここで自分との矛盾が発生し苦しみが出てきます。

 

上記の理屈からすると、他人を許せなかったり、怒りを持つことは寛容でない、心が狭い、人間として不出来だ、ということになります。(これも一種の思い込みかもしれませんが…)

 

私は他人のミスや不真面目にとてつもなく不寛容な人間であるため、はっきり言ってとても短気です。表立って怒りを、怒鳴るという形で相手にぶつけることは絶対にしないようにしていますが(反面教師です)、ものすごく短気なのに、それを内側に溜め込むとどうなるかといえば、当然ストレスがものすごく溜まります。

ストレス耐性が低いので、ストレスが溜まると激しく泣いたり怒ったり、とにかく疲れるような感情の消費の仕方をします。家で1人で。

自慢できることではないですが、何を隠そう診断では、ストレス耐性と体力が10点ぶんしかないため、感情を激しく動かすことで、ものすごく体力を消費します。(ものすごく疲れる)

そうして、自分が激しく他人に怒ることや、他人を許せないことに対して、今度は自分の不寛容に対して許せなくなり、怒り始めます。

 

人間としてものすごいバグを抱えて生きているな…と自分でも悲しくなるのですが、そうなると「自分死ねーーーっ!!!」という風に癇癪を起こし、最終的にはリストカットしたりします…(すみません)

 

結局自分の怒りの根源に何があるかと考えると、その先にはいつも父親(もう死んでますが)がいて、私は幼い頃から父親の不真面目で母親が割を食っている、損をしている場面を沢山見て育ちました。もちろん損をしたのは母親だけでなく、それに巻き込まれた私含む家族も同様です。

(そう考えると、自分を生み出した存在である父親が間違っていて、だから私は、生まれたところから間違いで、、という負のループに陥ってしまう事がよくあります。よくないね。)

 

相手を許すことで自分が損をする、と思いました。

だから、怒ってしまった話を他人にすると、よく「それは○○さんだからしょうがない」と言われるのですが、それを聞く度に、「なぜ私は何も悪いことをしていないのに、悪い事をした相手を許さなければならないのか」という気分になっていました。(実際、今も腑に落ちてはいませんが…)

 

しかし、友達の話では、どうやらその理屈は違うようなのです。

 

許すというよりは、動かしようがない事実を認め、諦めて次へ向かうこと。

 

怒るということは、何かが自分の思い通りに動かず、それをコントロールしようとしているということでもあると思いますが、しかし怒っても悲しんでも、動かせないものはあります。

どうしようもない人のために感情を激しく動かしてエネルギーを使ってしまうことよりも、自分がより前に進むことにエネルギーを使う、ということ。

 

怒りを持続させないように、他のことに気を向けるということ。切り替えて次に向かうこと。

(余談ですが、診断テストでは転換力も低かった…)

 

結果的に自分の感情をコントロール出来ずに損をしてしまうよりも、どうしようもなかった事実を置いて先に進むこと。

 

もう父親は死んでいるから、怒っても罪を償わせることは出来ないし、謝らせることは出来ないし、どうしようもない、過去起こってしまったその事実は、何であっても動かせないものだから、そいつを置いて、私は1人先に進んで行きます、という、要は考え方の問題ではありますが、それが大事だということのようです。

 

そしてその過程で自分が怒っている、ということも事実として認めること。

怒りたくないと思えば思うほどストレスも溜まるし、怒る自分に対して不寛容になります。自分に不寛容になると、余裕がなくなり、またイライラします。

そうではなく、まず怒る自分を許すことからはじめる。自分を許さなければ、当たり前ですが他人を許すことも難しくなります。

 

歌詞やドラマで使い古されているセリフに、「自分を愛せない人は他人も愛せない」というものがありますが、まさにその通りだなとしみじみと感じます。

 

まーーしかし散々メンタル向上を目指していて、自己肯定感をあげるとか、そういう試みをしていなかったわけではなく…。

 

最近SNSで見た知見によると、人間は自分のことを物理的に愛するのは不可能らしいので、自分の好きなことを増やすのが良いようです。

 

少し話が飛びましたが、自分ではなく、他に愛を見出すことが自分を受け入れる力になるわけです。人間って本当に不思議ですね。結局本当の本当に1人で1つでは生きていけないわけだ。

 

いつも通り話が長くなりましたが、

認めること、許すこと、受け入れること、諦めること、どれもおなじ話です。

 

シンプルに自分にも他人にも優しく生きていければいいなって。今日はここで終わりです。