左手ちゃんの日記

すぐしにたくなっちゃう人の日記

衝撃の事実

こんばんは。また来ました。

昨日は許すことについて書きましたが、今日はその延長線上にある、諦めることについてです。

 

私はどうやら諦めることがとても苦手なようです。

嫌いな人、苦手だと思う人に対しても好かれようとします。苦手なことについて全力で向き合おうとして、いつも結果潰れてしまうわけですが…。

 

万人に好かれようとすることはとても苦しく、全てを等しく諦められないということは、全てに等しく力を注いでしまうということです。

誰かに期待して、また裏切られて失望して、その振り幅がとても大きく、しかし毎回毎回学びません。

なぜか、今度こそと思ってしまうのです。

 

この間「ああもう人生の全てがつらい、やっぱり死ぬしかないんだ」と性懲りも無く死にたくなっていたわけですが、そうして絶望してすぐあと、人のちょっとした優しさに触れて、やっぱり人間は皆優しいんだと思いました。

 

思考が極端すぎるというところもありますが、優しさが1あって、それに触れると優しさが100だと思い込むため、結局優しさは自分が触れられるぶんの1しかないので、勝手に落胆し絶望する、という流れになります。

 

何度繰り返してもなお、私はなぜ諦められないのでしょうか。

 

聞きました。他人に。

 

そうしたらなんて返ってきたかと言うと、

「左手さんはさ、人が好きなんじゃない?」と。

 

私はそんなはずは無いと思いました。

だってだって、今までずっと苦しくて悲しい思いをして、何度も何度も人に裏切られて、何度も人に失望してきたはずです。

 

勝手に期待して頑張って、現実は理想とは違うと散々思い知ってきたはずなのです。

 

だから私が人間のことが好きだなんてことは、全く理論としては間違っているはずのことです…。

 

でも、悲しいことにそれしか理由が見当たりませんでした。

 

私にハラスメントを働いたキモいオジさんにも、私を叩いた母親も、私を殴った兄も、私をこき下ろした兄も、私をこういう風にした父親だって、全て諦められないから執着している。

 

もしかしたらあの時こうしていれば、という思いが溢れて止まらなくなるときがある。

 

あの時こうしていたら、この人は変わったかもしれない。この人にはこういう態度をとってしまったけど、可哀想だ、今どうしているだろうか。そういう同情が少しでもあるのです。

 

その人の話によれば、普通は嫌いだと思ったら切り捨てて、どうでもいいと思う、ということらしく、私はそれに対して大きな衝撃を受けました。

 

どうして可哀想と思うの?その人の自業自得なんだったら、クソ野郎だったな、で終わりでしょ、らしいのです。

 

私は自分のことを、とてもばかだなと思いました。なんでだろうとも思います。それでも諦めきれないのは、人間の善性や可能性を、どこかで信じているからでしょうか。

 

私はどれだけ傷ついてもどうして学ばないのでしょうか。親からもふつうに愛されることが出来なかったのに、なぜ人をこれほどまでに好きでいられるのか。諦められないのか。

 

私は自分が自分で怖くなりました。

でも私は、人が好きな自分も、少しずつ認めていこうと思います。

 

許せないのは相手の可能性を信じているから。

話せばわかると思っているから。

しかし時には切り捨てて前に進むこと。

切り分け、諦め、切り捨て、次へ行くこと。

 

全部忘れずに、認めた上で、置いて捨てていこうと思います。矛盾しているけれど、自分が精神的に健康でいるためには、多くを抱え込まないことが重要だから。