左手ちゃんの日記

がんばって真っ当に生きようとしている人の日記

怒りの感情に気づくこと

お久しぶりです。左手ちゃんです。

 

私も20代後半に差し掛かり、今本当〜〜に色々な悩みと直面しています。

 

ここ最近は、家庭環境が原因でうまく自信を持つことが出来ず、結果として自傷行為に走ったり、実際にしのうとして行為に及ぼうとしたりしていました。

 

しかしあることがきっかけで、自分の怒りの感情に気づき、なんとか脱出することが出来たのでそれについて今日は書こうと思います。

 

本当につい昨日、希死念慮がむくむく湧いてきたせいで、欄干に手をかけるところまで行き、階下を見つめて1人で涙を流していたとき、これまでの色んなことを振り返っていました。

 

家族のこと、仕事のこと、友達のこと、こういうことを今までされてきた、死んだら周囲にどういう影響があるか、私は何がしたくてこんなに死にたいのか。

 

そういうことを考えている時に、

「今駅のロータリーは階が低すぎるから、多分死ねないから、もっと確実に死ねる高い場所に移動しないといけない。仮にここから飛び降りたとしたら、きっと下の車に迷惑がかかる。調べたら家族に賠償請求が行くらしいから、それはそれで迷惑がかかるしいいかも!」

と思ったのです。

 

そこで冷静になって気づいたのは、これまで私は、自分に自信がないから、自分が悪いから、自分が生きていると周りに迷惑をかけるから、だから死んだ方がいいんだ、と思い込んできたのにも関わらず、家族に対する恨みや、これまで私を傷つけてきた人への恨みが、死のうとする直前になって湧いてきていたこと。

 

そうか、私はずっと、これまで私を傷つけた人や、私を救ってくれなかった社会に八つ当たりしたかったんだって、そこでようやく気づきました。

 

でもそれって、冷静に考えるとかなりおかしくて、自分が死んだらあとのことは何も分からないし、私を傷つけた人達はこれからも変わらず、勝手に幸せに暮らすかもしれない。

 

それならその人たちに復讐してから死んだ方が良くない!?!!!?!!!?!!?!!!?!!?(錯乱)

 

失礼。取り乱しました。

そこまで行かずとも、八つ当たりの気持ちで死ぬぐらいなら、それを傷つけた本人直接言うか、仕返しするかすればいいのに、なぜ私が死ねばならないのか??

しななくていいだろ。どう考えても。

 

というわけで、私は人に迷惑をかけたくて死のうとしていたことに気づき、そのお陰で今日も踏みとどまることができました。

 

また希死念慮が湧いてきて、私の幸せを邪魔する可能性がないとは言えないのですが、少なくとも自分の怒りや嫌な感情に気づいたので、もう自分勝手に死のうと思わないような気がします。

 

リストカットも、自分の感情が上手く処理できなくてやってしまっていたのですが、自傷行為お断りの病院も多いので、頑張って辞めたいと思います。

 

私は傷つけられた記憶をずっと持っていて、これまで、それが上手く消化できずにいました。

 

けれど、その理由が今になってようやくわかり、怒りを感じないようにずっと蓋をしてきたからだった。

 

だから、怒らないようにしてたから、親のことも「いつかは許せるといいな」とか綺麗事を並べてきたのだと思う。

 

でもそんな必要は微塵もなく、許す必要はない。

なぜなら、虐待、飲酒運転、暴力、脅迫、ネグレクト、不倫…そのどれもが法を犯す行為だから。

 

それを許したら社会がメチャクチャになってしまいますからね。

人がコミュニティを形成して暮らすためのルールが法律には含まれているわけで、それを許すのは私が反社会的行動を許すのと同じになってしまう。

 

今までそれに気付こうとしなかった(あるいは、気づきたくなかった)のは、そうしないと、親の元では生きていけなかったからなんだと思いますが…。

 

私は何度か兄から暴力を受けたことがあり、その中でも、首に包丁を突きつけられたり、寝ている時に上からお腹を殴られて窒息しかけたり、割と命の危険を感じるようなことがありましたが、親はそれを守ってくれないどころか、「許してあげてね」と言ってきたりしました。

 

当時は学生だったため自立した経済基盤を持っていなかったため、同じ家に暮らす上で、許さないと上手くやっていけない状況にあり、私はいつのまにかそれをなかったことにして、経済的に自立するまでやり過ごしてきました。

 

あの頃は全てがおかしかったけれど、子供の私はそれを受け入れて暮らすしかなかった。

 

おかしいと理解してしまうと、頭が狂ってしまうから。

 

今は、友人や周囲の支えもあり、家庭で起きていたことはおかしかったと思えるようになりましたが、それでも最近までは「親に感謝できない私は悪い子なんだ…」とか思っていました。

 

一人暮らしを始めて社会に出て、自分の感情を処理することが上手くできていないことにようやく気づいて、自分が上手く出来ないから悪いとか、でも家庭環境は自分では選べないのに、どうして誰も助けてくれないんだろう、とか、それでも私は家族に頼りたくないから1人で自立して生きていかないといけない、とか、色々考えてどこにも行けない自分が果てしなく孤独な存在のように思えて、それでも誰にも頼ることができないのに、誰かに頼りたくて、目の前の現実は待ってくれなくて、ずっと悩んできた。

 

でも全部自分の責任みたいに思う必要はないんだって気づいて、すごく楽になりました。

私はこれまで傷つけられてきた人達に怒っていい。

悲しかった。つらかった。

それを認めていい。

 

認めた上で自分がこれから何を選択していくかは自分の責任だけど。

これから自分が幸せに生きるために、自分を大事にして生きていくために、必要な感情は怒りでした。

 

これまで「怒り」は人を傷つけるから、なんとなく自分では抱いてはいけない感情のように思っていましたが、相手にぶつけなければ思うことは自由なんだ、ということですね。

誰かに一方的にぶつけられた怒りを私が受け止めるのはそれも違うし、うまく他人との境界線を引けるようになっていきたいです。

人は自分が傷つけられたと思ったら怒っていい。

それがわかって良かったです。

 

怒りを認めたら色々楽になったね!という話。

今度こそ、希死念慮がどこかへ行くことを願って、今日はこの辺で!

いつも読んでくれてる人達、ありがとう!!

承認欲求の正体

お久しぶりです。左手ちゃんです。

 

会社では無事新人研修が終わり、新人の成果発表を取り仕切って、今期の新人教育は終わりを告げました。(振り返りなどは残っていますが…)

 

私が採用してきた新人たちはとてもいい子たちばかりだったので、私も大変誇らしい気持ちで居ました。(例年より優秀だったため、新人の評価も高かったのです)

 

だけど、私の中の承認欲求が暴れています。

「私も新人研修の運営がんばったんだから、もっと褒めて欲しい」

「もっと言うとこの子達を連れてきたのは(採用したのは)私なんだから、私も褒めて欲しい」…。

 

でも、私の理性は「1年生が主役なのだから、私は影で支える役割であるべき」だと言っていて、相反するふたつの感情が綯い交ぜになって、また泣いてしまいました。

 

しかも、こういう時に限って、1番褒めて欲しい相手には褒めて貰えず、なぜかセクハラおじさん(新規)から「新人もよくやったと思いますが、貴女のリーダーシップは不可欠だったと思います。ご苦労さまでした。」とメールが来ていて、それを喜びたくない自分と、喜んでしまう自分が戦っていて、もうグチャグチャです。

 

自分はどうしてこんなに承認欲求が高いんだろう、と思い、おそらくそれも過去のなにかだろうと考えたのですが、2つほど心当たりがありました。

 

1つは、兄妹で私はいつも、無駄にいい子にしてしまっていたことです。

 

どういうことかと言えば、兄2人は塾に通っていました。でも私は、塾に通うのにはお金がかかることがわかっていました。

お母さんはいつも、塾に通うのにはお金がかかると言っていたからです。

それを聞いていた私は、自分の家が貧乏であることもわかっていて、無駄にいい子ちゃんムーブをしてしまったのです。

塾に通わずに自力で勉強をして、県立高校に入学しました。

 

でも、親は褒めてくれませんでした。

だからいつも、褒めて欲しい時は自分で言ってきたのです。

自分のどこがえらいかすごいかを説明して、褒めて!って。

でもずっとずっと、そんなこと言わなくても、褒めて欲しかった。認めて欲しかった。すごいねって。

何しても、そんなこと一言だって言われなかった。

私が無駄に頑張って、損しただけ。

 

1つ目終わり。

 

2つ目は、それに拍車をかける出来事がありました。言わずもがな宗教です。

 

良いことがあったら宗教のおかげなので、自分がどれだけ頑張ってテストでいい点をとっても、宗教のおかげになってしまいます。

 

だから私はずっと、お母さんに褒めて欲しくて、色んなことをしたけれど、それは母親にとってなかったことになっているらしくて、もう全部全部無駄でした。

 

でも別に、努力をすることが嫌いになった訳ではありませんでした。(なぜかはわかりません)

 

ただ、認めて貰えなかった私だけが、いつも心の中で置いてけぼりにされていて、いつも誰にも拾って貰えない、そんな気持ちでいるのです。(実際いつも通り悲観的になりすぎているだけで、そんなことはないのですが)

 

それでも最近少しずつ自分で自分の機嫌を取れるようになってきて、1人で抱えきれない時は誰かに話を聞いてもらったり、今日は帰りにコンビニ寄ってプリン買ったりしています。

自分が本当は好きじゃない人とかに話を聞いてもらおうだとか、そういう邪な気持ちも芽生えたりしますが、そういうのは無視できるようになりつつあります。

 

私の気持ちは、誰かに拾って貰える日は来るのでしょうか。

私はいつか、誰かの1番になれるのでしょうか。

 

それはまだわかりませんが、今はもう少しだけ踏ん張りどころかもしれません。

いつまで踏ん張ればいいのかも見えてこないけど、大好きな友達が何人かいるし、もうすぐ好きなゲームが発売するし、それで何とか食いつないでる間は、大丈夫なんだと思います。

 

それではこのへんで。

忘れることができました。

みなさんお久しぶりです。左手ちゃんです。

こんばんは。

 

タイトル通りですが、私は記念すべき今日この日(父親一周忌)に、強い憎しみから脱出することが叶いました。(一周忌なのは普通に忘れてて、母親からLINE来て思い出しました)

 

時間が経ったからなのか、父親のことをずっと許せないでいたはずの私の気持ちはどこかへ行ってしまい、「許した」というより「どうでもよくなった」「忘れた」そういう感覚に近いです。

 

誰かに「父親を許すことが出来ましたか?」ときかれれば、それは「許してはいない」という回答になるので、許せたか許せていないかというところでは、許せていないのかもしれませんが、思い出すだけで全身が熱くなるようなあの強い憎しみは、私の中から消え、今は比較的穏やかに日々を過ごしています。

 

あれから私が何をして、どう生きてきたかといえば、楽しい社畜ライフをがむしゃらに送りながら、日々の生活を穏やかに送るために、たくさんの努力をして、色々なことを試しました。

そのどれもに全て効果があったかと言われれば、一つ一つはとても小さなものだったのかもしれません。

 

具体的に私が何をしたかといえば、

1.自律神経を整えるためにハーブティーを飲む

2.浴槽に浸かり、リラックス効果のある入浴剤を試す

3.セロトニンが含まれるというバナナを食べる

4.メンタルは腸内環境と密接な関わりがあることが科学的に証明されているため、とにかく乳酸菌の含まれるものを食べる

5.ビタミン剤・鉄剤を飲む

6.ぬいぐるみを抱きしめる時間を取る(ぬいぐるみセラピー)

7.何もない日でもできるだけ外の光を浴びる

8.適度な運動をする(家の掃除や退勤時歩いて帰るなど)

9.仕事は定時に上がれる日は定時に帰る

10.寝具を良いものに変える

11.週に1度は好きな人間と話す時間を設ける

12.できるだけ自分が体力を消耗する人間関係とは距離をとる

13.たくさん食べる

14.生活習慣を整える

15.嫌なことを考える時間を意識して減らす

16.原因追求に対する考え方を変えた(全て自分が悪いと思い込むことで問題解決の原因が見えなくなり、何も意味がない上にそもそもことの善悪を決めることには意味が無いため、「誰が悪いのか」ではなく「何が原因で問題が起きたか」「同じようなことが起きた場合次はどうすれば良いのか」に思考を転換した)

17.自分が快適に過ごすためのお金は惜しまない

18.自分が不快に感じることを知るために、自分が悲しいと思った時や怒りを感じた時に、なぜそう思ったか常に考えるようにした

19.疑似ペットを飼った(しっぽロボット)

 

などです。(あげるとキリがないのでこの辺で)

 

とにかくたくさんたくさん、自分の精神を安定させるための努力をしてここまで来ました。

今でも嫌な気持ちになって、泣くことはまだあるけど、それでももう長い間悲しんだり、怒ったりすることはだいぶ減ってきました。

 

今になって思えば私はやっぱり病気だったのかもしれないけど、結局精神科は途中で通うのを辞めてしまったので、今となってはそれも分かりません。(私は自分の精神状態を報告するのがすこぶる苦手なので、深刻さは伝わりづらかったのだと思います)

ただ、毎日3時間くらい家に帰って泣き続けるような人は普通に病気だと思うので、精神科に行って解決する問題なら行った方がいいと思います。

 

色々自分の努力はあると思うけど、でもやっぱり私がここまで回復した要因は、友達の存在が大きかったと思います。

私はやっぱり生きていくのにはまだまだ自信が足りなくて、今でもやっぱり悲しくなると「死んだ方がいいのかも」という気持ちになることもあって、でもそういう時に、「生きていて欲しい」と思ってくれる人や、言ってくれる人の存在が、私が生きていることを今補強してくれているのだと思います。

 

今まで生きてきてたくさん悲しいことやつらいことがあったけれど、私は、今ある人間関係をとても大切にしたいと思うし、いつでも支えられて生きてきたと思う。

だから死にたくなっても、今は立ち止まって考えることが出来るようになりました。

「私が死んで辛い思いをする誰かがいる」ことの重みを考えると、冷静になることができる。

死にたくなってる人にそれ言っても無駄だと思ってきたけど、案外24歳くらいになってみると、本当にそう思えるもんなんですね。

 

忘れることが出来て本当に良かった。

私は私だけのかけがえのない命を抱えて、私と、私を大切にしてくれる人たちのためだけに生きてゆきます。

 

さようなら!憎しみ!

 

 

許せない気持ちの精算方法

こんばんは。左手ちゃんです。

 

許せない気持ちはどう精算したらよいのでしょうか。許せない気持ちは身体に残しておくと、それは毒になり自分自身を醜い姿に変えてしまいます。

 

許せないという気持ちはとても苦しく、長く持っていると、どうして許せないのかもわからなくなったのに、とても憎い気持ちだけが残って、許せない自分が許せなくなることもあります。

 

しかし、許せない気持ちの精算方法は、「許す」か「忘れる」しかありません。最悪です。コスパ悪すぎ。

 

私は、ある友達と話しをしていて、家庭事情のことでマウントを取られたことがあります。

 

具体的に言えば、「左手ちゃんの家はまだ仲良いからいいじゃん」と言われました。

 

からしたら、その子の家はとても裕福で恵まれているように見えるし、親と喧嘩したことだって、その子が少なからず原因の一つに過ぎず、機嫌を取っていれば理不尽に怒られることはないはずで(うちの家が仲良く見えるのなら私が基本的に言うことを聞いて大人しくしているから)、年に1度はサンタクロースが来て枕元にプレゼントを置いていくし、クリスマスのCMが流れてもチャンネルを変えられるわけでもなし、突然親兄弟に暴力をふるわれるわけでも、無理やり宗教の集会につれていかれるわけでも、母親が不倫している訳でも、金銭で自分の生活を脅かされるわけでもないのに、どうして私が不幸でマウントを取られなければならないのか。

 

私は1度だってそんなこと彼女に言ったことはないし、家族の話を聞いて羨ましいと思ったって、「うちの家はこんなに不幸なのによく平気でそんな話できるね」なんて言ったことは1度もありません。当たり前ですが。

 

私のスタンスとしては、人間は自分のことしか感じることが出来ないので、自分が一番不幸というのは、皆がそうですから、だから私は他人の不幸も幸福も尊重するから、その代わりお互いに侵害はナシで、というのが基本です。

 

結局そういうことを言われても笑って、「あはは、そうかなあ」としか返せないので、私は強烈な怒りを覚えつつも、その人に怒ることはせず、黙って離れることを選びました。

 

きっとその子は私に言ったことも覚えてないし、多分私の家の事情なんて微塵も覚えていないので、私だけがずっと憎い気持ちを抱えたまま、許すべきか悩んでいるだけなのだと思います。(私の家庭事情については話をしているのでその子が知らないはずはないのですが、おそらく自分の不幸にしか興味がなかったのかもしれません)

 

正直な話、そんな風にマウントをとるなら親を交換するか?とものすごく言いたくなったけど、ぐっっっっと堪えて飲み込みました。自分がその場で言えばよかったのかも知れないけど、長く交友関係を続けたいと思える相手ならまだしも、私のことを尊重してくれない相手に対して、そんなことをする気にはならなかったし、そもそも私の性質として、喧嘩はできないので、やめました。

 

私はこの1件がどうしても許せないけれど、余計なものは拾わずに生きていくと決めたので、自分の価値を落とさないために、「許す」という時間が必要のない楽な方法を取らないで、忘れることで清算したいと思っています。

 

ここで何も気づいていないような相手を許してしまうと、私はまたその子に、私が大事に思っていることを侵害されるか、これだけはして欲しくないと思うことをされてしまう恐れを増やすだけだからです。

 

ひとつ、記事にしたことで、私がずっと内側で抱えていたモヤモヤしたものが外に出ていきました。

 

父親のことも、いつかは忘れて生きれる時が来ると思いますが、先日某芸能人の1件があって、「一番苦しんでいるのは本人、やめたい気持ちがあっても病気なので辞めるのは難しい」という他人のツイートを見て、リストカット依存症に苦しんでいる私は、たしかに、辞めたいと思っていても繰り返してしまうという気持ちはわかるけれど、他人に迷惑をかけているわけではない(と思っている)ので、やっぱり私は父親のことを許せない気持ちのまま生きていこうと思い直しました。

 

しかし、いま私は父親の声も忘れつつあります。私が何に苦しんでいるのかわからなくなって、いつか許せない気持ちを、忘れるという方法で手放すことが出来たとき、私はどうなってしまうのかわからないけど、自分がつらかった記憶は忘れずに、他人の不幸も幸せも、無論思いやって生きていける人間でありたいと思います。

 

ただ、生きていて出会う隣人全員のことを尊重しようと思うことは傲慢だし、自分が傷つく危険性を際限なく増やしてしまうので、自分が大事に思った人や、自分が大事にしなければならないと感じる人のみに限定していこうと気持ちを新たにしました。

 

私の大事な人達、いつも健やかでいてくれ。

ではこのへんで。

精神科に行ってきた。2

こんにちは。左手ちゃんです。

お昼に記事を書いているということは、タイトルからもお察しの通り、そうです精神科2回目です。

 

精神が不安定な原因がなんとなくわかりました。貧血です。

なぜ気づいたかというと、爪に横線が入っており(スプーンネイルと呼ぶらしいです)、貧血だとは思っていたけど、やはり徐々に進行していたらしく、体に異常が現れたことで流石にやばいと思い、飲みやすそうな鉄分のサプリを探しました。

鉄分不足とは恐ろしいもので、これが不足すると精神が落ち込んだり、胃腸の調子が悪くなったりします。

ここ最近ずっと続いていた胃腸の不調(繰り返される嘔吐など)は、どうやらそれが原因だったようです。

 

なので、ちゃんと毎日2錠鉄分のサプリを継続して飲み続けることで、大きな精神の不調の波が無くなりました。

 

まだ一瞬の波は来ますが、家族に関することのみ、家族から連絡が来た時や他人に家族について聞かれた時など、そういう時に家で涙が止まらなかったり、急に過呼吸を起こしたりするぐらいで、毎日のように続けてずっと泣いているようなことは無くなりました。

 

身体的なことが原因でうつになることって、結構あるみたいです。(先生に聞いた)

 

ただ、先生も仰っていましたが、元気な時でも頑張りすぎると(何かのきっかけで落ちた時に)反動が来ることはあるみたいで、つい昨日も家族から連絡があり、しにたくてしにたくてたまらなくなって、包丁の棚を開ける前に止まりましたが(進歩)、元気な間にも蓄積されていた小さなストレスが急に吹き出すようなことはあるようなので、それは気をつけてくださいとのことでした。

(調子の良い期間にも、頑張りすぎず、適度に休む訓練をした方が良いらしいです。)

 

職場の言いやすい人には通院を報告したこと、周囲が私の負荷を思っていたよりも気にかけてくれていたこと、そういったことを報告し、今回は終わりになりました。

 

前回処方された漢方ですが、飲んでも吐いてしまうことがあり、合わないということを伝え、今回はお薬はなしで様子見しましょうか、ということになりました。

 

病院が終わったあと、自分のご褒美に近くのケーキ屋さんに寄ってロールケーキを買いました。お店のおばあさんが、「明るくなってきましたねえ」というので、「雨が止んだので嬉しいですね」と返して、なんとなく嬉しくなりました。

 

雨が止んだら夏が来ます。

気持ちのよい夏を迎えられるよう、1歩ずつ幸せに向かって歩きだしました。

 

 

死にたい気持ちは一過性

こんばんは。左手ちゃんです。

ストレスと闘いながらぼちぼち生きています。

 

死にたい気持ちは一過性です。

平たくいえば発作のようなもので、それは突然襲いかかってきて、コントロールがききません。

 

死にたいという気持ちは、全てをどうでも良くさせる力があります。死ねば全て終わりだから、死んでしまえば未来のことを考えて不安にならずに済む、そんなことを思うのです。

 

私は何度か遺書を書いたことがありますが、その内容はどれも共通していて、

・葬式形式の指定

・家族への恨み

・私は宗教を信じていないこと

・遺産相続者の指定

・友達への感謝と謝罪

・私と関わったすべての人に、私が死んだことは私が原因なので、私のことはすぐに忘れて幸せに生きて欲しいこと

が共通事項でした。

 

ただほんとうに、死にたくなっている時って全てがどうでも良くなっているはずなのに、遺す人達のことを気にしている時点でどうかと思いますが…。

 

ただほんとうに死にたいと思っている時というのは、どちらかといえば、「死ななければならない」と思い込んでいるという表現の方がニュアンスが近いです。

 

私は間違った存在から生まれた間違った存在、誰からも無償の愛を受け取れず、いつまで経っても不出来な存在であるから、私は生きている価値がない世界には不要な存在だと。私が私自身のことを不幸だと感じることは私のせいであるから、それならば死んでしまった方がよいのだ、と、そういう気持ちなわけです。

 

今これを書いている私は、死にたい気持ちから少し離れたところにいるので、そのようなことは考えないわけですか、しかし今こうして、文章を書いている最中にも、やはりそうでなければならないと思い込みそうになるので、言葉の力というのはとても恐ろしいものです。

 

やまない雨はない、そういう言葉がありますが、死にたい気持ちもいつかは終わりを告げます。それを信じて生きていくしかないのです。

 

もしかしたらまた、他の日には死にたい気持ちが近くにいる日が来るかもしれないけど、それでも最近はだんだんと小さくなっているのを感じます。

 

書くことで思い込むというのは大事なので、気持ちをゆるやかに保ちつつ、死にたい気持ちの総量を少しでも減らせるといいなという気持ちを込めて。おやすみなさい。

 

 

不完全を認めること

どうも、左手ちゃんです。

最近仕事のストレスで精神科で貰った薬を吐きました。吐いたら意味ないのでやめようね。

 

今日のタイトルにもある通り、不完全を認めることの必要性についてです。

私はよく思考が極端だと言われます。

 

どのくらい極端かと言うと、100と0の間がありません。

数字で表してもあまりピンと来ないと思うので、具体的に言うと、1人の人(恋人)に愛されていない(もしくは愛されているが、自分に対して100%の愛情を注いでいる訳ではない)ことで、世界の全員から愛されていないと思い込むくらい極端です。

 

上の具体例に関しては、自分の中で、それは自分のことを好きでいてくれる友達の好意を無かったことにし、つまりはとても失礼なことなのでやめる、という結論で落ち着きました。

 

また別の具体例を出すと、誰かのどうしようもない1つの欠点を見つけてしまったとして、それまでその人のことを友達だと、好きだと思っていても、その人の全てを嫌いになってしまうということがあります。

人間欠点は誰にでもありますから(というか欠点と長所は表裏一体なので)、どう考えてもこの思考は破綻していて、だから自分のことも嫌いになってしまいやすいのですが、とにかく自分は、完璧ではない、中途半端を認めることがとても難しく感じます。

 

そのため、私は誰かに仕事を任せるということがとても苦手です。

こないだ試しにやった性格診断テストでも、「任せ力」が低いという結果でした。合ってるね。

 

「誰かに仕事を任せるよりも、私がやった方が早い(もしくはミスがあっても、把握出来ているのでフォローが楽)」という、まーーー典型的な完璧主義&傲慢やさんなわけですが…。

 

今日、「上司さんのフォローお願いね」と上司の更に上の人から頼まれ、今回もまた「やります大丈夫です」ムーブをかましてしまい、勝手に追い詰められるいつものやつをやってしまいました。

最近どうやら、自分は仕事の処理能力が人より早いということがわかってきました。なんの仕事をしても、「早いね」と言われることが大半なので、おそらく客観的に見ても早いのでしょう。(品質はわかりませんが…)

 

人より早いと何が起きるかと言うと、

仕事を任せられる→やります大丈夫ですムーブを繰り返す→自分の許容量を超える→死

という構図が簡単にできあがってしまいます。

 

結局仕事の処理能力が自分より低い人間のフォローも、やりますムーブをかまして仕事を抱え込んでしまう上、1度ひきうけた仕事を誰かに少しずつ任せたりなんてこともできず(仕事の処理能力が低い人のフォローなので、任せると修正作業等が発生するリスクもある)、いつも仕事を抱え込み1人で死んでしまいます。

 

そして、自分の許容量を超えた結果、仕事に行きたくなくなりますが、自分の中の極端図式では、「仕事に行かない自分=ダメな自分=死んだ方が良い」という感じになり、またいつものダメなループに入ります。

 

仕事に行かない自分を認められれば、自分が受けている好意を認められれば、1箇所の欠点だけで人を嫌いにならず良いところも悪い所も認めてゆければ、私はきっともっと楽に力を抜いて生きれるのでしょう。

 

不完全を認めることがなぜこんなに難しいのかはわかりません。うつ病になりやすい人って言うのは、完璧主義が多いとか聞くけど、全くその通りだと思います。

 

おそらく、他人に怒る隙を与えたくないというのが1番の理由だとは思いますが…。

それと同時にやはり、許したり認めることが苦手なことが大きいようです。

それも全て認めるとか許すとかではなく、きっと少しづつやっていって、今の自分のありのままを受け入れることができたら、今よりもっと息がしやすくなる気がします。

 

とにかく、不完全でも認めていくこと、少しずつやって行けたらいいなと思います。おやすみなさい。