こんばんは。
家帰ってから0時まで4時間くらい死んだように寝てました。というわけで明日も仕事ですが、そんなに寝ても仕方ないのでブログを更新しています。
いきなりですが、今回は「正しさ」についての話です。
私は、本当に正しいことなんてこの世に何一つないと思って生きてきたし、論文でもそう書きました。
誰もが正しいと思い込んでそれ通りに生きている法律でさえも、国によって違いがあるし、価値観は人それぞれ、本当に正しいとか間違っているとか、そういうことは実際に存在しないと。
おそらくそれは事実として間違いではないにしても、ここで大きな誤解をしてしまっていたことに最近気づいたのです。
(最近気づくこと多すぎだし気づくの遅くね?)
正しさは存在していないわけではありませんでした。
個人個人の中に、たしかに正しさは存在しています。
それは価値判断基準と呼ばれるもので、きっと誰しもが、「これは正しい/正しくない」を直感で判断しているはずです。
正しさって、その人が人生において何を優先しているかということでもあると思います。
「楽しい」に向かって生きる人、お金(社会的価値)が大事な人、愛が大事な人、仕事が大事な人、などなど…。
私にはそれがありません。
どういうことかと言えば、他人に流されやすいというレベルではなく、他人に正しさや価値判断基準を完全に依存している、ということです。
私の「正しさ」は、他人の正しさをつぎはぎして出来ているので、とても脆いです。
誰々さんと誰々さんの正しさをぶつけて矛盾が生じたときに、とても苦しいし、自分がその誰々さんの正しさにそぐわなかったことをしてしまった場合、自分が正しくないということになるので、自分は間違った存在だと、思い込みやすいというわけです。
自分の中のエラーによるストレス、感じすぎじゃないか?バグが多いな…。
本当はきっと、みんなが皆生きていく上で誰かと誰かの正しさをぶつけながら、その中で自分の正しさ、芯とも言えるものを確立していくんでしょう。
だから喧嘩もするし、戦争も起こすわけです。
しかし私はおよそ自分の正しさというものを持っていないせいで、上手く喧嘩が出来なくなってしまっていました。
自分の正しさがなく、そのうえ自信がなく卑怯なので、悪口や指摘は相手に対面で言うことがとても難しい。
喧嘩をするということは人同士の正しさをぶつけるということで、喧嘩ができる人たちは正しさをすでに確立している。自信があるとか気が強いとか、そういう言い方もできますが…。
喧嘩が出来ないにしても、意見を言い合うとか、建設的な議論をするとか、もしくは自分の中で正しさが決めてあれば、線引きができるから、喧嘩しなくとも自分が傷つかないように防御したり(無視するとか)いくらでもやりようはあると思います。
自分の正しさをどうやって決めるか、他の人がどうやっていつまでに確立してきたのか、それはきっと小さい頃の環境や人間関係にあると思うのですが、どうもそうなると、私は人生詰んでいるな感しかない。
きっと正しさを持っている人達は、無意識のうちにそれがあるから、そういういつまでにとか、細かいことは聞いてもわからないとは思いますが…。
もしわかる方がいたら教えてくださいね。
情報提供待ってます。
正しさがどのようにして作られるのか、なぜ私にはそれがないのか、正しさを持っている人と私の違いはなんなのか…。
普通に日常生活を送っていてもこうして深く考えてしまう癖があるので、だから疲れそうだねとか言われるんだと思うけど。
社会生活向いて無さすぎる芸人なので、お金に困らないなら哲学者として生きていきたかったな…。
今週はやっと精神科に行ってくるので、そこで自分の正体をもっとちゃんと知れたらいいなと思っています。
今日はここで終わりです。
いつも読んでくれている人たち、ありがとう。おやすみなさい。