左手ちゃんの日記

すぐしにたくなっちゃう人の日記

怒りの感情に気づくこと

お久しぶりです。左手ちゃんです。

 

私も20代後半に差し掛かり、今本当〜〜に色々な悩みと直面しています。

 

ここ最近は、家庭環境が原因でうまく自信を持つことが出来ず、結果として自傷行為に走ったり、実際にしのうとして行為に及ぼうとしたりしていました。

 

しかしあることがきっかけで、自分の怒りの感情に気づき、なんとか脱出することが出来たのでそれについて今日は書こうと思います。

 

本当につい昨日、希死念慮がむくむく湧いてきたせいで、欄干に手をかけるところまで行き、階下を見つめて1人で涙を流していたとき、これまでの色んなことを振り返っていました。

 

家族のこと、仕事のこと、友達のこと、こういうことを今までされてきた、死んだら周囲にどういう影響があるか、私は何がしたくてこんなに死にたいのか。

 

そういうことを考えている時に、

「今駅のロータリーは階が低すぎるから、多分死ねないから、もっと確実に死ねる高い場所に移動しないといけない。仮にここから飛び降りたとしたら、きっと下の車に迷惑がかかる。調べたら家族に賠償請求が行くらしいから、それはそれで迷惑がかかるしいいかも!」

と思ったのです。

 

そこで冷静になって気づいたのは、これまで私は、自分に自信がないから、自分が悪いから、自分が生きていると周りに迷惑をかけるから、だから死んだ方がいいんだ、と思い込んできたのにも関わらず、家族に対する恨みや、これまで私を傷つけてきた人への恨みが、死のうとする直前になって湧いてきていたこと。

 

そうか、私はずっと、これまで私を傷つけた人や、私を救ってくれなかった社会に八つ当たりしたかったんだって、そこでようやく気づきました。

 

でもそれって、冷静に考えるとかなりおかしくて、自分が死んだらあとのことは何も分からないし、私を傷つけた人達はこれからも変わらず、勝手に幸せに暮らすかもしれない。

 

それならその人たちに復讐してから死んだ方が良くない!?!!!?!!!?!!?!!!?!!?(錯乱)

 

失礼。取り乱しました。

そこまで行かずとも、八つ当たりの気持ちで死ぬぐらいなら、それを傷つけた本人直接言うか、仕返しするかすればいいのに、なぜ私が死ねばならないのか??

しななくていいだろ。どう考えても。

 

というわけで、私は人に迷惑をかけたくて死のうとしていたことに気づき、そのお陰で今日も踏みとどまることができました。

 

また希死念慮が湧いてきて、私の幸せを邪魔する可能性がないとは言えないのですが、少なくとも自分の怒りや嫌な感情に気づいたので、もう自分勝手に死のうと思わないような気がします。

 

リストカットも、自分の感情が上手く処理できなくてやってしまっていたのですが、自傷行為お断りの病院も多いので、頑張って辞めたいと思います。

 

私は傷つけられた記憶をずっと持っていて、これまで、それが上手く消化できずにいました。

 

けれど、その理由が今になってようやくわかり、怒りを感じないようにずっと蓋をしてきたからだった。

 

だから、怒らないようにしてたから、親のことも「いつかは許せるといいな」とか綺麗事を並べてきたのだと思う。

 

でもそんな必要は微塵もなく、許す必要はない。

なぜなら、虐待、飲酒運転、暴力、脅迫、ネグレクト、不倫…そのどれもが法を犯す行為だから。

 

それを許したら社会がメチャクチャになってしまいますからね。

人がコミュニティを形成して暮らすためのルールが法律には含まれているわけで、それを許すのは私が反社会的行動を許すのと同じになってしまう。

 

今までそれに気付こうとしなかった(あるいは、気づきたくなかった)のは、そうしないと、親の元では生きていけなかったからなんだと思いますが…。

 

私は何度か兄から暴力を受けたことがあり、その中でも、首に包丁を突きつけられたり、寝ている時に上からお腹を殴られて窒息しかけたり、割と命の危険を感じるようなことがありましたが、親はそれを守ってくれないどころか、「許してあげてね」と言ってきたりしました。

 

当時は学生だったため自立した経済基盤を持っていなかったため、同じ家に暮らす上で、許さないと上手くやっていけない状況にあり、私はいつのまにかそれをなかったことにして、経済的に自立するまでやり過ごしてきました。

 

あの頃は全てがおかしかったけれど、子供の私はそれを受け入れて暮らすしかなかった。

 

おかしいと理解してしまうと、頭が狂ってしまうから。

 

今は、友人や周囲の支えもあり、家庭で起きていたことはおかしかったと思えるようになりましたが、それでも最近までは「親に感謝できない私は悪い子なんだ…」とか思っていました。

 

一人暮らしを始めて社会に出て、自分の感情を処理することが上手くできていないことにようやく気づいて、自分が上手く出来ないから悪いとか、でも家庭環境は自分では選べないのに、どうして誰も助けてくれないんだろう、とか、それでも私は家族に頼りたくないから1人で自立して生きていかないといけない、とか、色々考えてどこにも行けない自分が果てしなく孤独な存在のように思えて、それでも誰にも頼ることができないのに、誰かに頼りたくて、目の前の現実は待ってくれなくて、ずっと悩んできた。

 

でも全部自分の責任みたいに思う必要はないんだって気づいて、すごく楽になりました。

私はこれまで傷つけられてきた人達に怒っていい。

悲しかった。つらかった。

それを認めていい。

 

認めた上で自分がこれから何を選択していくかは自分の責任だけど。

これから自分が幸せに生きるために、自分を大事にして生きていくために、必要な感情は怒りでした。

 

これまで「怒り」は人を傷つけるから、なんとなく自分では抱いてはいけない感情のように思っていましたが、相手にぶつけなければ思うことは自由なんだ、ということですね。

誰かに一方的にぶつけられた怒りを私が受け止めるのはそれも違うし、うまく他人との境界線を引けるようになっていきたいです。

人は自分が傷つけられたと思ったら怒っていい。

それがわかって良かったです。

 

怒りを認めたら色々楽になったね!という話。

今度こそ、希死念慮がどこかへ行くことを願って、今日はこの辺で!

いつも読んでくれてる人達、ありがとう!!