左手ちゃんの日記

すぐしにたくなっちゃう人の日記

人間の皮膚硬すぎワロタ

どうも、お久しぶりです。左手ちゃんです。

 

もう死なないと何回言って、何回死のうとして、何回死ねなかったかもうわかりません。

これには槇原敬之も真っ青。

もう死のうとしないなんて、言わないよ絶対〜!!!!

 

いよいよこのブログも気が狂ってきました、

知り合いに見られていると思うとまた死にたくなってきますが、見られていると思うことで自分を戒める意味も込めています。

 

まずは前回の記事の話をします。

毒親が無事灰になりました。しかし結論から言わせてもらえば、灰になったところで何も変わりませんでした。

 

色々ありすぎてどこから話せばいいか分かりませんが…。

まず葬式についてですが、当然の事ながら母親が信仰している宗教の元執り行われました。最悪です。

 

父親が死ぬ前、父親本人から「(母親の信仰している)宗教は信じていない」という旨のLINEが来ていましたが(無視しました)、そんなことは全く関係ありません。人が死ぬと本人の意思は関係ないということをはっきりと思い知りました。

その上最悪だったのが、宗教団体はたいていの場合、「この宗教をやっていたらこんなにいい事があった!宗教のおかげ!(要約)」みたいなことをその団体の中で行われるイベント(=集会)で話す機会があります。

それを、1番上の兄の嫁が、父親について話を書くことになったようで、後日母親から送られてきたものを、25736871周まわって面白かったので、他人の地獄として共有しておきます。(知り合いの何人かにも見せましたが)

 

1番面白かったところだけ抜粋すると、「父親が死んだ悲しみよりも、○○様が父親を成仏させて頂いた有り難さが勝った」という文です。何が面白いか(やばいか)を説明しなくても、倫理観のない人間でなければわかると思うので割愛します。

そもそもの話うちの父親は家族から嫌われていたはずで、感動したり涙を流したりすること自体が私にとっては「いや意味わからん全然」案件であるのですが、母親は終始葬式の間泣いており、子供に堂々と不倫してます宣言をしていたのに、お前はどうしたんだと心の中で257697568回思いました。

 

私は父親にされたことやその時に覚えた憎しみも、まだありありと思い出せるため、父親が灰(というか骨)になっても、なるべく近づきたくないなという思いは全く変わらなかったですし、葬式のルールとして、「最後にご親族様から一言ずつ…」というアレも、私は「じゃあね」と言っただけでした。

家族が悲しんでいるのが大変胸くそ悪かったし、1番上の兄が「僕達のために沢山我慢してくれてありがとう」と言ってアホみたいに泣いていた時、「一体なんのことを言っているんだろう…酒もタバコも女も(書くの忘れてたけど、キャバクラとかにも普通に行ってた模様)我慢できず、労働もろくにしていなかった上に迷惑しか掛けていないのに…どういうこと??」

という怒りを抑えるのに大変でした。一体何を我慢したのか、何もわかりませんし、実際誰もわかっていないと思います。

 

母親も「お勤めご苦労様でした」的なことを言っていましたが、何が「お勤め」で何が「ご苦労様」

なのか、私にはさっぱりです。

 

本当は「死んでくれてありがとうー!じゃあね!」とでも言おうと思ったのですが、親族の手前やめました。(不謹慎ポイント高すぎるので)

 

会社の人が葬儀に来たのですが、後日かなり時間が経ってからうっかり「葬儀に行って様子を見てきました」メールを見てしまい、そのメールの中に「思ったより元気に振る舞われているご様子」と書いてあり、私の気が狂っていることが世間にバレてしまいました。ショック!

 

父親が死んでとりあえずお金出たので、母親から子供に50万円ずつ配られました。

めでたい話ですね。遺産相続もまだなので、これから楽しみです。

50万円を母親から手渡された時、「今まで本当にお金がなかったのよ?隠してたわけじゃないからね!」という前置き付きでしたが…。

言い訳をすると余計に怪しいというのと、50万円プラスちょっと高そうな化粧品を私に誕生日プレゼントとしてくれたのですが、(ものに罪は無いのでありがたく使っています)まるで、「誕生日プレゼントがなかったのは今までお金がなかったせい」とでも言われているようで、果てしなく気分が悪かったのを覚えています。

 

それと、次男夫婦が葬式に来ました。

そうです、あのネットカップルです。

葬式に出るだけ出て、何も挨拶はせずに帰っていきましたが、次男のモラハラ体質は変わっておらず、葬式中隣に座っていた私に密着して腕を小突いてきて、「お前と会うの久しぶりだなw」と話しかけてくるなど、空気の読めなさや、私に対してしたことをまるっきり謝ろうともせず親しげに接してくるなど、無神経もいいところでした。長男や母親に、「ずっと○○(私)と話したがってる様子だったけど」と言われましたが、それは私は十分に理解しているし、うんざりでした。

 

葬式の時の話はとりあえずここで終わりですが、最初に戻ると、父親が死んだところで私の精神病は治ることはなかったし、それどころか最近は夢に出て怒鳴られたこともあって、むしろ葬式をしたことにより、より鮮明に思い出してしまうことで症状が悪化したような気さえします。

 

もう葬式の話も父親の話も本当にどうでもいいのですが、とにかく今日死にたくなって、もう「死にたい」を自分の中で煮込みすぎて3ヶ月くらい置いてしまったら、死にたい理由すらよくわからなくなってしまって、結構本気で死のうとしたりとかしていました。

 

何日か前からリストカットのようなこと(市販のカミソリはたいてい皮膚が切れないようにガードが付いていますので、実際に皮膚に刃物を強く押し当ててもめちゃめちゃ痛いだけで全く切れません。安全!すごい!)をしていましたが、ついに、という感じで久しぶりに包丁を手に取りました。

 

しかし、腕に包丁を当てた時、手が震えたし、力が入りませんでした。

遺書も途中まで書いてあったので、死ぬ準備として最後まで書き切ろうと思ったのに、頭がぼーっとしてまともに何も考えられなくなりました。(遺書セットに関しては、父親が死んだ時、遺書がないと遺産相続の時超困るということがわかったので買いました)

 

人間にはたぶん防御反応のようなものがあって、例えば初めてコンタクトを入れようとした時目をつぶってしまったり、何か自分に危険なことがあると、それを止めるようにできているようなのです。だから力を入れようとしても、身体が止めてしまう、言うことを聞かないというのか、とにかく深く刺すことが出来ませんでした。

 

あとで調べてわかったことですが、そもそも自殺ってめちゃくちゃ難しいです。(あたまわるそ〜)

成功率10パーセントです。残りの90パーセントは後遺症とかケガとか、そういうのを抱えながら生きないといけないということです。受験かよ。

しかも、家族によって強制的に入院させられる模様。これが一番私にとっては避けたいことです。

結論、人間は簡単に死なないようにできているようですので、死にたくなっても死ぬのはおすすめ出来ません。

 

タイトル回収です。

人間の皮膚硬すぎワロタという話ですが、そういうことです。ギターとかやってる人って、やってると指だんだん硬くなってきますよね、たぶんリスカも同じで、傷つけたら傷つけるだけ固くなってくるんじゃないかと思います。本当に酷いと思いますが、自分の意志関係なく人間は産まれてくるのに、どうして簡単に死ねるようにできてないんだよ。ムカつくな。

 

人間の皮膚はとても丈夫で、なので私はいつも通り人間としてはギリギリの状態で毎日生きてます。もちろんギリギリだって会社でニコニコしながら仕事をしているし、ああそれは、多分反面教師とも言えることなのだと思いますが、ちゃんとしていない自分が許せないので、「働くか」「死ぬか」の二択になっちゃうんですよね、どうしても。(だからすぐ死にたくなるんですが…)

 

今回結構いつもより本気で死のうとしてみて、「マジで死ねない(少なくとも私は)」ということがわかったので、忘れないように文章として残しておこうと思います。

 

コロナ禍で生きる希望とか失われがちですが、死ねないことがわかった以上、生きるしか現状道がないので、何か希望を見つけて生きていくことにします。

 

その何かはまだ見つかっていないので、すぐ死にたくなる…(以下、ループ)

 

ループって怖い!

また死にたくなったら書きに来るかもしれませんが、そのときは笑ってください。

 

今日はこの辺で終わりにします。さよなら〜

 

 

 

毒親が灰になるまで

お久しぶりです。

 

遂に父親が死にました。

原因は酒による肝硬変で、前にも1度なっていた病気でした。

酒の飲みすぎで前日も母親と喧嘩していたようで、呆れや怒りしか感じません。

 

毒親は死ぬまで毒親だったというわけで、私は完全に、父親を許す機会を失ってしまいました。

生きて謝ったところで、許すこともないと思いますが、私がなぜこんなことを言い出したかといえば、私が抱えている精神疾患(正式な診断はありませんが、パニック障害は確実だと思われます)について、トラウマの治療だとかはその対象を許すことで癒しを得ることがオーソドックスな治療法だからです。

私は、今は許すことが出来なくとも、いつか許すことができたらと思っていましたが、もう永遠にその機会は巡って来ません。

 

なぜなら勝手に死んでしまったから。

死ぬまでバカは治らないとよく言いますが、本当に死ぬ直前まで、私の中に憎しみしか残していかなかった。

 

私のこのやり場のない怒りや悔しさはどうしたらいいのでしょうか。「ころしてやりたい」と思っても、もうそれすら出来ません。

私はアレの精子から生まれてきたという事実が、気持ち悪くて仕方がありません。

その事実だけは、一生変えることができないということに、悔しさや怒りが湧いてくる。

 

忌引で休暇を貰わなければならないため、会社の人に報告をしたら(それがふつうのことなので、その人達の優しさが悪くないということは頭では理解していますが)、とても可哀想という目で見られ、私の「悲しみ」を決めつけられ、まるで私が悲しんでいないことが悪いかのようで、気が狂いそうです。

 

母親も、父親に黙って不倫していたくせに、前日まで父親の過失で喧嘩していたのに、父親の死を一日中悲しんでいるようで、意味がわかりません。理解できない。一体何を後悔することがある?お前たちは自分にされたことも自分でしたことも忘れて人が死んだから悲しいと????わけがわからない理解できないし理解したくもない、私は悲しいなんて思わない、複雑な気持ちはあれど、それはもう気が狂いそうだからであって、それだってお前らのせいだし今から葬式が憂鬱でならない。

 

絶縁した(笑)次男と連絡が取れないということで、長男に連絡してくれないかと頼まれたため、連絡したところ、

・終始マウントを取られる

・「俺の嫁が許せば、(九州の地名)に遊びに来てもいいぞ笑」

・世間話の一環でハラスメントを受けて部署異動した旨を伝えると、「お前にハラスメントするなんてそのおじさんも相当変わってるな笑」

・「兄弟で結婚してないの、お前だけだもんな」

・「お父さんも可哀想だよな〜あんな頭おかしい奴らと一緒に住んで笑」(こいつは絶縁宣言をして出ていった割に父親に金を無心し、父親に無心した結果そのしわ寄せが母親に行っていたが、それを全て忘れているのか、母親と長男の連絡を全て無視し、葬式の一切を向こうに任せているのにもかかわらず、このようなことを言っている)

・「お前はそういうやつだと思ったよ、でもお前の遺伝子の半分はお父さんからできてるんだぞ?笑」などと言ってきた(それはわかっているが、私はお前などに「そういうやつ」として分かられたくはない)

・引っ越す際のごたごた(「お前は死んだ方がいい、ゴミ」と私に言い残し家を出ていったこと)を一切なかったことにされる

・なんの断りもなしに急に電話がかかってきたのは先日だけでなく、次男の結婚式の時にも私に電話がかかってきた

・相手の都合を何も考えていないため、用件も言わず急に電話をかけてきたわりに、自分が唯一まともだと認識している家族と久しぶりに世間話がしたかっただけのようで、3回くらい話を切ろうとしたが、最近やっているゲームの話や、どこに住んでいるのか、という話を延々と続けようとした

・母親と兄を悪者にし、俺はまともだということを終始アピールしていたが、葬式の準備や母親のケアを全て長男に任せているくせに、よくわからない

・(某宗教団体)で葬式をするなら行きたくない、俺は行くか迷っている、お前はどうする?と聞いてきましたが、同窓会じゃないんだから、誰が行くとか行かないとかで決めるのではなくて自分の意思で行くか行かないかくらい決められないのかこいつは

という感想になり、ますます気が狂ってきました。

 

総括すると、父親の葬式をするということは私がなるべく関わりたくないと思っている家族と向き合わなければならないことであり、周りの目や認識がさらに私の「ふつう」を痛めつけ、なぜか父親の被害にあった家族までも父親の死を悲しんでいることが理解できないため、気が狂ったということですが、毒親を親に持った人達の書いた記事等をみると、「とりあえず後悔のようなものを抱くのが嫌なので、やった感とかを味わっておきたいという意味で最期まで見届ける」という人と、「絶対に関わりたくないので遺産もいらないし葬式も行かない」という人に分かれるようでした。

私は前者ですが、もしかしたら、父親(全ての元凶)が灰になるところをこの目で見られたら、憎しみや怒りも一緒に消えていくのではという淡い期待を胸に、見届けようという思いです、毒親が灰になるまでは。

 

毒親のもとに生まれメンヘラに育った私

お久しぶりです。こんばんは。

 

色々とあって、会社で人が見ているところで過呼吸を起こしてしまい、今は部署異動をしてほとんど平和に暮らしているところです。

 

こんな、3行で誰にでも、「あぁ、こいつはメンヘラだ」とわかるような自己紹介、私だってしたくはなかったのですが、事実なので仕方がありません。

 

しかし私にも、メンヘラを治さなければならない時が来た。これは決意の文章なので、まだ治ったわけではないので悪しからず、治ったと思って見に来た人、ごめんなさい。

 

なぜメンヘラを治そうと決意したかといえば、いち社会人として、自分の精神をコントロールできずに他人に迷惑をかけること、自分の感情の起伏の激しさにそろそろ疲れてきてしまったこと。理由は色々ですが、人としてちゃんと自立して、一人で立って生きていけるようにならなければ、私の理想とする生活は実現不可能だからです。

 

ま〜散々書いてきたのでこの記事では割愛しますが、いわゆる毒親のもとに育った私は、ず〜〜っと拗ねてきました。

 

「だって私が今こうして精神病チックになっていることは、全て親が原因なんだから、私が悪いわけじゃないじゃん!どうしようもないじゃん!誰が責任取ってくれるんだよ!」と。

 

確かにその通りだね!

でも、どうしようもないわけではないんです。

育ってきた環境がどうあっても、私は今ここにこうして一応経済的に自立し、一人暮らしをして、会社で働いている。休日に遊ぶ友達もいる、お試しだけど、彼氏もいる。一応まともな人間の皮をかぶって生活することはできている。

 

だから、私を選んでくれる人たちのために、私は一人で立って生きていける人間になる必要性がある。なので拗ねている場合ではない。

 

そもそも拗ねていたところで何か変わるわけでもないし、結局、親に原因があるから、誰かに何かをされたから、そうやって思って生きていたら、私がまた違う誰かに同じことを繰り返してしまう危険性がある。例えばDVとかね。

 

私はそれも避けたい。だから、私がメンヘラを卒業しないと、きっといつまで経っても自分がずっと憧れてきた「あたたかい家庭」を築くことは不可能だ。これは断言できる。

 

そこで、メンヘラから脱した人のブログなどを読みあさり、どうすればメンヘラひいては精神病を脱出できるのか、方法を色々と探ってみた結果、以下のことは私でも試せそうだったのでここに記す。

 

 

1、深く考えないようにする。

趣味など没頭できるものを作ることで、ネガティブなことを考える隙を与えない。メンヘラは暇人が多いとか言ってる人がいたけど、そうではなく、何もしない時間があるとすぐ不安なことについて思い出したり考えたりしてしまう心配性がメンヘラに多いだけ。忙しかったとしても家で一人になる時間や、何か深く考えてしまうような時間を脳に与えてしまったら、病みタイムの始まり。とにかく考える隙がないようにひたすらやることをつっこむ、一番いいのは自分を大切にしてくれる友達に会うことだけど、それがだめなら新作のゲームをプレイするとか、とにかく不安なことについて考えないようにすることが一番大事。

 

2、依存先を増やす。

「依存しないようにしなきゃ」と思えば思うほど病んでしまうのがメンヘラ。そうではなく、依存先を増やすこと。それが自己肯定感の向上にもつながるし、誰か一人だけに大きな負担をかけることもない。気持ちを分散させることが大事。誰か一人に強く依存しすぎると、その人がいなくなると途端に崩れることがわかっているため、その人の言動に一喜一憂し、その人の機嫌を取ろうとすることになり、つまりコントロールできないはずの他人の機嫌をコントロールしようとして、それが思い通りにいかないとイライラしたり病んでしまったりするため、一人だけに依存するのは自分にとっても相手にとってもリスクが高い。しかし依存先を増やしておけばリスク分散ができ、自分にはこの人もこの人もこの人もいる!と考えることで、自己肯定感を上げる助けにもなる。

 

3、精神科に行く。

どこも初診が電話予約なのは、本当に精神病患者を迎え入れる気があるのか?という気しかしないが、おそらくここまできてしまった場合、薬に頼らざるを得ないのだろうと思う。メンヘラを本格的に治したいと思ったら、徹底的にやらないと再発する可能性がとても高いだろうし。したがって、自分が考えた治療法やメンタルトレーニングのみでなく、しかるべき第三者機関のもと、正式な病名を診断してもらい、それに合った治療が必要なのだろうから、私は勇気を出して電話予約をするべきなのだ…怖いけど!

 

以上、メンヘラを治すためにできそうなこと、というかやろうとしていることリスト。

 

一歩ずつ頑張っていけば、着実にメンヘラは治るはずだから、それを信じることもきっと、治すことにつながっていると思う。

 

私はもう23歳になる。

 

だからもっと自分の目指す強くてかっこいい落ち着いた30歳になるために、私は今変わらなければならないと思う。自分を大切にしてくれる人たちや、自分の未来のために、今でなければ、遅い気がするから。

 

 

 

 

お母さんは毎週金曜日の夜にいなくなる話。

これも私が子供の頃の話。

いつの頃だかはもう思い出せないが、私が中学か小学生か、そのくらいの話だ。

 

お母さんは毎週金曜日の夜になるといなくなって、月曜日の朝に帰ってくる人だった。

 

「お母さんは?」

「知らな〜い、またどっか行ったんじゃない?」

 

私はいつも嘘をついた。

お母さんの居場所はなんとなく検討がついていたくせに、それを言うと1番上の兄は不機嫌になるから。

 

毎週金曜日の夜に消えるのは、母親が不倫相手と密会していたからというのは、三兄弟全員が知っていたことだった。

兄も、知らずに聞いている訳ではなく、いない母親を私に向かって責めているだけで、私は母親に、知らないって言ってねと言われていたからこう答えていただけ。

 

そういう時期は長く続いた。

決まってリビングに置いてある封筒(場所は父親には秘密だったので隠してあった、なぜなら使ってしまうから)の中に何千円か入っていて、私たち兄弟は1人500円でコンビニでお弁当を買って食べた。

 

そういう思い出を今振り返って、当時は本当になんとも思ってなかったけど、これって軽い育児放棄では…?と思ってしまい、今に至る。

 

なんだかうちの家がほとんどゴミ屋敷みたいになっていたのも、親のどちらかがするはずの片付けや掃除をしていなかったから、自然とそうなっていたんじゃないのか…?

 

今更なんだけど、うちの家ってほんとうに親が親として機能してなかったから、普通に今生活していると本当に思うけど、ちゃんと機能している親って本当にすごいよ。

 

実家が遠くにある同期とかが実家に帰るという話を聞く度に、ちゃんとしている家だから居心地が良くて、だから帰りたいと思うんだろうなあって思う。私はあの家に帰りたいとは思ったことはないけど、そういう家だったら、帰りたかっただろうなあと思う。

 

帰りたい家がないことが最近とても苦しい。クソ上司のハラスメントに合って、仕事を辞めたいと思っても、帰る家がないから辞めたら路頭に迷ってしまうし、こういう状況を伝えたところできっと、「宗教を信じてないから」と言われることは予想がつく。逃げ場はどこにもない。

 

そんなクソ上司でさえ、家では良いパパをやっているみたいで、仕事の途中で息子の誕生日に3000円台もするケーキをさらっと買って帰り、家族でディズニーランドホテルに泊まったり、奥さんと銀婚旅行に行くらしく、私はそれを聞いて、「いいなあ」と感じてとても惨めに思ってしまった。

 

たしかに、酔っ払って新卒の女をセックスに誘いそうになる50代のおじさんはヤバいんだけど、それは家族からしたら見えていない部分なわけで、立派なパパでしかないわけで。毎日働いてるし役職は偉いし酒飲みすぎて家でうんち漏らしたりしないしタバコで床焦がしたりしないし借金も作らないしきっと学資保険だって勝手に切り崩してない…。

 

私はそれがとても羨ましくて、羨ましいことが悔しくて、つらくて、ここ最近ずっと、その事を考えてしにたくなってしまう。

 

この感情ってきっとどうしようもなくて、ただずっと、「普通の家」に対するコンプレックスは消えないんだと思う。

 

無理に消そうとするのも良くないというのはもう、散々こういう気持ちと向き合ってきてわかっている。今はこれが消えるまでじっと待つしかない。時間が経って悲しくなくなったら、自分に優しくしてあげたい。

 

私が健全な精神を持って幸せになるには、こういう感情とひとつひとつ向き合う必要がある気がするって最近わかったから、ちゃんと向き合っていこうと思う。ひとつひとつ大事に消化して、それが遠い未来の自分の栄養になればいいと思う。

 

 

八方美人のメリットデメリットの話

私はものすごく八方美人だ。

本当に誰にでも好かれたいので、誰かを特別視すること、誰かを特別視している私を他人に見られることを嫌う。

 

しかし全人類にモテるなど到底不可能な話で、いくらローラメルシエのアンバーバニラの香水をつけたところで、「人類モテ」は叶うはずはない。

(あれはバニラ系というか、ココナッツ系のいい匂いでした、Twitter情報ありがとう。)

 

という具合に、誰かに嫌われることが怖いので過激な発言をしたらそのあとで賛成意見を補ってしまうという、見事な構文が意図せずして完成してしまったが、しかしあの香水はなかなか評判がよかったので、事実「人類モテ」は嘘ではないと思う。結構甘めなので多少好みは別れるだろうが。

 

話題が逸れてしまったので元に戻すが、私はとかく八方美人で、誰にでもいい顔をしたがる。

これは良い事でも悪いことでもなく、ただの事実なので、どうしようもないことだが。

 

個人的八方美人の特徴として、

・誰にでもいい顔をする

・他人に気に入られようとして媚びを売る

・嫌われたくないので頼み事を断るのが難しい

・事なかれ主義

・自分に自信がなく、常に自分の行動指針の中に他人の行動指針が存在する

というものがある。

 

ほかは読めばわかるから説明は割愛するが、最後の項目についてだけはわかりづらいと思うので少しだけ補足すると、例えば、「○○ちゃんに嫌われたくないから、こういう行動はとらないようにしないと」、のようなことだ。

自分が八方美人だと自覚したのは最近でもないが、常に自分の行動指針の中に、「他人に嫌われたくないからやらなきゃ」「他人に好かれたいからやらなきゃ」というよくわからない不純物が長い間混じっていた気がする。

他人の気持ちはコントロール出来るようなものではないので、他人を気にして行動することはとても愚かなことだと、自分勝手に生きることが1番結果的に楽しい人生になると、ずっと知っているはずなのに、すぐ忘れてしまう。あたしドリー、すぐ忘れちゃうの。

 

それはともかくとして、私が八方美人に生きていることのデメリットを、最近とても感じ始めたのでそれについての話をする。

 

八方美人を悪口風に書くと、色んな人間に無駄に媚びを売りすぎる人間ということになるが、私はまさに色んな人間に無駄に媚びを売りすぎて最近ものすごい損をした。

 

具体的にいえば上司から性的な方面でのハラスメントを受けた。

これ以上詳しく言うと身の危険とかもあるので詳しくは説明しませんが…。

 

色んな人間に無駄に媚びを売りすぎるというのは、結果的に自分の価値を落とし、安売りしているということになる。

 

たくさんの人に好かれやすいというメリットはあるものの、代償がデカすぎる。

 

リップサービスが多いアイドルには厄介なファンがそれだけ多くつくのと同じで、よくわからない変なものまで引き寄せてしまうので、非常に健康によろしくないのだ。

 

八方美人は、好かれたい人を選んで、嫌いな人間には嫌われる勇気をもたなくてはいけない。

あまりにも当たり前のことを言っているとは思うが、全人類に好かれることは前述の通り到底無理だし、ならば好かれたい人間は選ばなければならない、それだけのことが私にはあまりにも難しいことのように思えてしまう。

 

基本的に不平等なことが嫌いだから、それを他人にもしたくないという私の生きる上での美学も関係してくるが、好かれたい人間を選ぶことは、一方でその好かれたい人間たちだけを特別視することであるので、「あの人は人によって態度を変える」と思われる可能性を孕んでいる行動なので、私にはとても恐ろしいことのように思えるのだ。

 

しかし、好かれたい人に好かれるには、信用されるには、人を選んで付き合うことはとても必要なことだと思う。

 

誰かを選ぶことは誰かを選ばなかったことでもある。だからといって、選ばれなかった誰かが可哀想だって思ってなんかいられない。

 

私は今幸せに向かって真っ直ぐに歩くのだ。

脇道にはそれない。

自分の幸せのために、誰かを選ぶということ、順位をつけるということ、時にはそれを選択する強い意志をもつこと。

 

忘れないでねって話。

 

 

好きすぎて苦しいのは。

好きすぎて苦しいのは良くない。

 

この頭お花畑は何をいきなり言ってんだと思うかもしれないが、好きすぎて苦しいというのは意味不明すぎてよくない。

 

何があったかといえば、例のタバコの人と付き合うことになった。

 

私はこんなの関係ないなと思いつつも、恋愛に関するまとめサイトなどを見てしまいがちなタチなのだが、結局そういったまとめサイトには「一般的な恋愛の形」、つまりは何回目のデートで告白するのが無難だのなんだのという、平均的にはこんな感じです、というようなことしか書いていない。「3回目デート神話」だって、平均的にはそう、と言うだけでその平均の中には1回目もあるし257回目とかもあるだろう。1番真ん中に収まる必要はないし、およそ「普通」

から外れた人生を送ってきた私に、それが通用するはずもない。(でも見ちゃうんだけどね…)

 

 

話が逸れたが、私は1度目のデートでその人に自分の想いを伝え、保留にされ、2度目のデートでやっとこさお試し期間として付き合えることになったわけだ。

 

晴れて付き合えることになって、めでたし、めでたし、とは行かないのが「恋愛」の悲しいところだ。

 

自分から告白したということもあり、自分はものすごく相手のことが好きなのに、相手はそうでもない、という、付き合っているのに片思い、という、現状かなり訳の分からない感じになっている。

 

付き合っているのに、という所が余計に私を悩ませるのだろうか、これが「好きすぎて苦しい」ということに繋がってくる。

 

そもそもなぜ「好きすぎて苦しい」のか?我々はその謎を探るべくアマゾンの奥地へとは向かわずに、インターネットの海へ向かった。

 

ちょっと調べたところによると、自分が相手に対して寄せている好意と、相手が自分に持っている好意が釣り合っていないと感じているから苦しい、らしい。

あとはおそらく、自分が相手に「これだけ好きでいて欲しい」という期待と、相手の好意が釣り合っていないということもあるだろう。

 

あ〜…なるほどね。はいはい。

うんうん。

いくらそう言い聞かせて読んでみても納得出来ないし実感も湧かない。

「そもそも好きすぎるとかどうしようもないじゃん!」と思っている自分もいて、なかなかつらくなってくる。

 

ここしばらくこの人が好きだという気持ちに対してじっと向き合っていたから、その人のことしか考えられず、何をしていてもその人のことを考えてしまう、恋愛メンヘラになってしまっていて、自分がこのままだとダメになってしまうと思った。とにかくこの記事を書いたのはそういう理由だ。

 

今日はBOOKOFFには別の用事があって行ったのだが、ふと目に止まって、恋愛の啓蒙本?を今日読んで気づいた。

 

「あっ、今自分のこと好きじゃない、やばい」って。

 

その本には、「好きな人とずーっと幸せで一緒にいる方法」についての恋愛哲学について書かれていて、最後に、対になる人のことを考えた時に、あなたと一生一緒にいるのはあなたですと書かれていて、だからあなたを愛さないことにはずっと幸せになれないままだとも書かれていた。

 

私は一番大事なことを忘れるところだった。

いつもいつも意識しているつもりではいても、いつの間にかズブズブと沈んでしまうところだった。

 

自分のことを好きになれないなら恋愛をする意味もない。

恋愛を別のものに置き換えてみるとわかりやすい。もっと言うと主語を自分ではなく大切にしている友達にしてみるとわかりやすい。

 

そんなに辛いなら辞めた方がいいよ…とアドバイスするに決まってる。

 

「好きすぎてしんどい」という精神状態は、とても不健康だ。なぜなら自分の幸せが他人の気分によって左右されてしまうから。そしてその他人の気分は自分でコントロールできるようなものではなく、コントロールしてもいけないものだからだ。

 

好きな人がいなくても生きていける自分は精神的に安定しているので、ついでに好きな人がいればもっと幸せになれるが、好きな人がいないと生きていけない自分というのは、好きな人に好かれていないと思い込めば簡単に自己肯定感が下がり、好きな人がいなくても生きていける自分のように1人で生きていける力はないので、どんどん自分のことも嫌いになってしまう。そして自分のことが嫌いになった私は、相手のことも落ち着いて見つめることが出来なくなってしまう。結果、別れる。

 

とにかく好きな人がいないと生きていけない自分というのは、とても愚かでとても弱い。

そもそももって、自分が理想とした恋愛の形は、「1人で生きていけるけど、2人でいればもっと幸せになれる」というものだったはずだし、私は一番大事な、自分のことを好きになることを忘れるところだった。

 

「恋は盲目」とはよく言ったものだが、恋愛は恋している対象のことはもちろん、自分のことまで見えなくさせてしまうことだってある。

 

自分が不安定になる恋愛は長くは続かないし、それは絶対に、「好きな人とずーっと幸せで一緒にいる」ことには向かっていない。

 

私が健全で安定した幸せを手に入れるために、そして誰かと2人で生きていくためには、私は1人でも生きていける私であらねばならない。

 

友達と出かけることを生きがいにしている私。ゲームを生きがいにしている私。音楽を生きがいにしている私。働いて給料を貰う私。私のために毎日料理を作る私。一人でも生きていける私。

 

そこに、好きな人と一緒にいて幸せな私が加わること。それが私の目指す私。

 

これが、「好きな人がいないと生きていけない私」になると、それしか生きがいがなくなってしまって、その人が消えたら、人生の楽しみは消えてしまうことになる。

 

私が幸せになるために、もう1回思い出したい。自分を好きになること。その人がいなくても自分は当たり前に生活できていたこと。自分は安定した幸せが欲しいこと。

 

シンプルで大事なことって、疲れていたり悩んでいると忘れてしまいがちだ。だから文章を書くことで、ちゃんと忘れないように残しておこうと思う。私は幸せになるんだってことをね。

 

 

病気の話

ここ最近病院に行ってばかりいる。

別に特にたいした病気を患っている訳ではないて、ただ花粉症で耳鼻科、ニキビで皮膚科に行った、というだけのことだ。

 

人生20年生きてきてようやく最近気づいたことは、病院に行けば大抵の事はなんとかなるということ。

 

私は最近、自分は精神病なのでは?と思うことが多くある。それは月経によるメンタルの一時的な不調だったり、自分の感情をうまくコントロール出来なかったり、ときに自分が人より鈍臭いような気がしたり、人間とコミュニケーションをとる際に極端に不安になってどうしようもなくなったりするから。

 

ADHD?不安障害?双極性障害

自分が病気であるのなら、なんとなく納得が行く気がするし、その方が世間も許してくれるような気がする。

 

精神科にかかったことがないのでなんとも言えないが、よく「精神病は甘え」とか言う人がいるが、もしかたらたしかにその通りなのかもしれない。その人が鬱だと言えば診断書は鬱だと診断するだろうし、私も長年父を見てそう思ってきた。本当に鬱だったらこんなことできない、とか、家では元気だし、とかなんとか言って。

精神の弱い人間に偏見があったし、休むことは私にとって「甘え」だった。

 

でもようやく最近になって、自分の心が思ったより弱かったことを知り、自分がしていたことを少し後悔した。

あの時寄り添ってあげていれば父は変わっていたのか、とか今でもそう思う瞬間はあるけど、それを小学生とか中学生の私に要求されても無理があるし、タイムマシンが発明されない限りそれを実行することは不可能だし、私は今でも父のことが許せない。

 

精神病だから、お酒を飲んでるから、人に黙ってクレジットカード使って借金作ったり、学資保険勝手に下ろして使い込んだり、妻や子供に暴力とか暴言とか浴びせていいわけじゃないでしょ。

 

お酒を飲みすぎて怒鳴る父も、それに対応してヒステリックに叫ぶ母も、ただただ怖かった。喧嘩してる声がリフレインして、喧嘩してない時にもきこえるようになった。それから私は人の怒鳴り声が怖い。

 

怖いからずーっと何もしないできた。近寄らずに、父親の洗濯物さえ汚物のように扱って(実際にアルコールのせいで漏らしたりしてて物理的に汚かったのもある)、父親が単身赴任してからも、家に帰ってくると、極力部屋から出ないようにした。怖かったから。

 

でもつい最近父親が帰ってきた時、家が1番荒れていた時よりかなり時間が経って、病気もして恐怖感が薄れていたせいか、気まぐれでうっかり普通に話をしてしまった。私が構えていたのと反してなんともなかった。私は考えた。

 

普通にしていれば普通の人だった?悪いのは家族のみんなだった?もうよくわからなくなってきた。私がなにか悪いことをした訳でもないのに、どうして罪悪感を抱かなければいけないのか…。

 

怪物みたいに思っていたのに、いつの間にかものすごく弱くてしょぼい存在になっていて、自分が大きくなったことや、親が歳をとったこと、生きてきて時間が経ちまくっていたことを痛感した。

 

私は今就職活動をしている。自分一人で生きていくために、親に頼らないようにするために。きっと自分一人で生きられるようになったら、もっと親が小さい存在に感じてしまうだろうと思う。

 

母親には何かあるごとに「ご飯作ってあげないから」「学費誰が払ってると思ってるの」とか、生命活動の維持に必要なたべものや金銭について脅されてきたが、私が就職することによってそれは意味をなさなくなる。非常に喜ばしいことだ。

 

私は就職活動が一人で出来る。このことが、今の私を「正常」足らしめている気がしている。精神科へ何度も何度も行こうと思ったが、行くのにもハードルが高すぎるし、自分は病気と言えるほど酷くないのでは、という気持ちもあり、ひとまずは就職活動ができる自分を拠り所にし、自分を「正常な人間」と思い込むことで、私は私の精神状態の保証書としたい。

 

私は専門家ではないし、医者にかかったこともなく、精神や障害といったことはかなりデリケートな問題なので、あまり深く突っ込まれても困るのだが、私が私として生きていくために私の精神があと少し持ってくれないと困るので。

 

ここまでが過去の下書き、ここからは就活を終えた未来の私から。

 

しっかり就活を終えました。社会人になっても病んだりしながらなんとか頑張っています。

病んでたって大丈夫です。あなたには素敵な友達がいます。よかったね。