左手ちゃんの日記

すぐしにたくなっちゃう人の日記

精神科に行ってきた。

こんにちは。左手ちゃんです。

前回の記事で予告していた通り、精神科へ行ってきました。

 

結論から言うと、初診の段階では、明確な診断は下せないそうです。

 

可能性として、不安障害の中のどれかに当てはまるのでは、という話でした。

もしくは、双極性障害Ⅱ型。(これは、3〜4日躁状態が続くそうなので、私の場合そういった周期的なものでもないのでは、ということでした。)

 

パニック障害を疑ったのですが、パニック障害の症状とも少し違う感じらしく、パニック障害というと、週に1回くらいのペースで過呼吸が来るということのようなので、それとも違うのでは…という…。

 

私が期待していた「ここに行けば今すぐなんとかなる」か、「とりあえず病名を知りたい」という希望は得てして叶わなかったわけですが、とりあえず初回は様子見で漢方を出しましょう、という事になりました。

 

とりあえず先生に家族の話やこれまでの色々を聞いてもらい、つらかったね、とか、そういう言葉をかけてもらって、何度も話してる途中で泣いてしまったりして、それでも終始先生はものすごく冷静に話を聞いてくれました。淡々とした語り口の先生で、なんとなく安心感がありました。

 

あと、自分が思っていたよりも、自分の状況はあまりよくある状況ではないようで、そこに1番驚きました。

割と精神病を患う人の多くは家庭環境が原因で、精神科に通院する人も、そういった家庭環境の人が多いのかと思い込んでいましたが、先生の反応を見る限り、うちの家はそこそこ特殊なケースのようでした。先生、若干引いてた。

(なんとなく、質問の傾向からするに職場でのストレスが原因で、という人が大半っぽい)

 

ネットに溢れてる情報だけを拾って、よくある事だと思い込もうとするの、良くないですね。教訓。

 

何度か他人に説明するうちに、(だいたい相談相手も決まっているので)相手が前提条件を理解していた上での相談に慣れてしまっていて、うちの家がかなり複雑で色々あることを忘れていて、もう少しまとめてくればよかった、という気持ちになりました。

 

先生が最後に総括してくれたのですが

・家庭環境がなかなか複雑でずっとその対応に追われていた

・ハラスメントで異動になったり父親が死んだり彼氏と別れたりで色々ありすぎた

・しかしそれをずっと我慢してきたため、症状が強くなってきていた

・まずは少しずつ休むことが必要

・難しいかもだけど病院に行ったことをまずは上司に言ってみる

ということでした。

 

診断を下すことよりも、心を安定させていくことがあくまでも目的だから、とりあえず漢方は副作用も少ないし試そうか〜ということで、飲んでどうなるかわかりませんが、とりあえず経過を見て、次回の診察でまたお話しましょうという感じです。

 

なんか、気持ち的には第三者に話を聞いてもらえてすっきりしたような、診断が出なくてもやもやしたような、よく分からない気持ちです。

 

今朝、檻を壊す夢を見ました。

誰かが檻に閉じ込められていて、私はそれをハンマーで叩いて壊していました。

(夢の中だからあれだけど、冷静に考えて中に入ってる人大丈夫だったんだろうか…。)

 

私はいつも夢占いをするのですが、檻を壊す夢は、苦しい状況から抜け出そうとしている、もしくはもうじき抜け出すことが出来る予兆を指しているそうです。

 

きっともうすぐこの苦しさから、解放されていくことができるのではないかな、という淡い希望を抱いて、疲れたので昼寝します。おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正しさについて

こんばんは。

家帰ってから0時まで4時間くらい死んだように寝てました。というわけで明日も仕事ですが、そんなに寝ても仕方ないのでブログを更新しています。

 

いきなりですが、今回は「正しさ」についての話です。

私は、本当に正しいことなんてこの世に何一つないと思って生きてきたし、論文でもそう書きました。

誰もが正しいと思い込んでそれ通りに生きている法律でさえも、国によって違いがあるし、価値観は人それぞれ、本当に正しいとか間違っているとか、そういうことは実際に存在しないと。

 

おそらくそれは事実として間違いではないにしても、ここで大きな誤解をしてしまっていたことに最近気づいたのです。

(最近気づくこと多すぎだし気づくの遅くね?)

 

正しさは存在していないわけではありませんでした。

個人個人の中に、たしかに正しさは存在しています。

それは価値判断基準と呼ばれるもので、きっと誰しもが、「これは正しい/正しくない」を直感で判断しているはずです。

正しさって、その人が人生において何を優先しているかということでもあると思います。

「楽しい」に向かって生きる人、お金(社会的価値)が大事な人、愛が大事な人、仕事が大事な人、などなど…。

 

私にはそれがありません。

どういうことかと言えば、他人に流されやすいというレベルではなく、他人に正しさや価値判断基準を完全に依存している、ということです。

 

私の「正しさ」は、他人の正しさをつぎはぎして出来ているので、とても脆いです。

誰々さんと誰々さんの正しさをぶつけて矛盾が生じたときに、とても苦しいし、自分がその誰々さんの正しさにそぐわなかったことをしてしまった場合、自分が正しくないということになるので、自分は間違った存在だと、思い込みやすいというわけです。

自分の中のエラーによるストレス、感じすぎじゃないか?バグが多いな…。

 

本当はきっと、みんなが皆生きていく上で誰かと誰かの正しさをぶつけながら、その中で自分の正しさ、芯とも言えるものを確立していくんでしょう。

だから喧嘩もするし、戦争も起こすわけです。

しかし私はおよそ自分の正しさというものを持っていないせいで、上手く喧嘩が出来なくなってしまっていました。

自分の正しさがなく、そのうえ自信がなく卑怯なので、悪口や指摘は相手に対面で言うことがとても難しい。

喧嘩をするということは人同士の正しさをぶつけるということで、喧嘩ができる人たちは正しさをすでに確立している。自信があるとか気が強いとか、そういう言い方もできますが…。

 

喧嘩が出来ないにしても、意見を言い合うとか、建設的な議論をするとか、もしくは自分の中で正しさが決めてあれば、線引きができるから、喧嘩しなくとも自分が傷つかないように防御したり(無視するとか)いくらでもやりようはあると思います。

 

自分の正しさをどうやって決めるか、他の人がどうやっていつまでに確立してきたのか、それはきっと小さい頃の環境や人間関係にあると思うのですが、どうもそうなると、私は人生詰んでいるな感しかない。

 

きっと正しさを持っている人達は、無意識のうちにそれがあるから、そういういつまでにとか、細かいことは聞いてもわからないとは思いますが…。

 

もしわかる方がいたら教えてくださいね。

情報提供待ってます。

 

正しさがどのようにして作られるのか、なぜ私にはそれがないのか、正しさを持っている人と私の違いはなんなのか…。

 

普通に日常生活を送っていてもこうして深く考えてしまう癖があるので、だから疲れそうだねとか言われるんだと思うけど。

社会生活向いて無さすぎる芸人なので、お金に困らないなら哲学者として生きていきたかったな…。

 

今週はやっと精神科に行ってくるので、そこで自分の正体をもっとちゃんと知れたらいいなと思っています。

 

今日はここで終わりです。

いつも読んでくれている人たち、ありがとう。おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

衝撃の事実

こんばんは。また来ました。

昨日は許すことについて書きましたが、今日はその延長線上にある、諦めることについてです。

 

私はどうやら諦めることがとても苦手なようです。

嫌いな人、苦手だと思う人に対しても好かれようとします。苦手なことについて全力で向き合おうとして、いつも結果潰れてしまうわけですが…。

 

万人に好かれようとすることはとても苦しく、全てを等しく諦められないということは、全てに等しく力を注いでしまうということです。

誰かに期待して、また裏切られて失望して、その振り幅がとても大きく、しかし毎回毎回学びません。

なぜか、今度こそと思ってしまうのです。

 

この間「ああもう人生の全てがつらい、やっぱり死ぬしかないんだ」と性懲りも無く死にたくなっていたわけですが、そうして絶望してすぐあと、人のちょっとした優しさに触れて、やっぱり人間は皆優しいんだと思いました。

 

思考が極端すぎるというところもありますが、優しさが1あって、それに触れると優しさが100だと思い込むため、結局優しさは自分が触れられるぶんの1しかないので、勝手に落胆し絶望する、という流れになります。

 

何度繰り返してもなお、私はなぜ諦められないのでしょうか。

 

聞きました。他人に。

 

そうしたらなんて返ってきたかと言うと、

「左手さんはさ、人が好きなんじゃない?」と。

 

私はそんなはずは無いと思いました。

だってだって、今までずっと苦しくて悲しい思いをして、何度も何度も人に裏切られて、何度も人に失望してきたはずです。

 

勝手に期待して頑張って、現実は理想とは違うと散々思い知ってきたはずなのです。

 

だから私が人間のことが好きだなんてことは、全く理論としては間違っているはずのことです…。

 

でも、悲しいことにそれしか理由が見当たりませんでした。

 

私にハラスメントを働いたキモいオジさんにも、私を叩いた母親も、私を殴った兄も、私をこき下ろした兄も、私をこういう風にした父親だって、全て諦められないから執着している。

 

もしかしたらあの時こうしていれば、という思いが溢れて止まらなくなるときがある。

 

あの時こうしていたら、この人は変わったかもしれない。この人にはこういう態度をとってしまったけど、可哀想だ、今どうしているだろうか。そういう同情が少しでもあるのです。

 

その人の話によれば、普通は嫌いだと思ったら切り捨てて、どうでもいいと思う、ということらしく、私はそれに対して大きな衝撃を受けました。

 

どうして可哀想と思うの?その人の自業自得なんだったら、クソ野郎だったな、で終わりでしょ、らしいのです。

 

私は自分のことを、とてもばかだなと思いました。なんでだろうとも思います。それでも諦めきれないのは、人間の善性や可能性を、どこかで信じているからでしょうか。

 

私はどれだけ傷ついてもどうして学ばないのでしょうか。親からもふつうに愛されることが出来なかったのに、なぜ人をこれほどまでに好きでいられるのか。諦められないのか。

 

私は自分が自分で怖くなりました。

でも私は、人が好きな自分も、少しずつ認めていこうと思います。

 

許せないのは相手の可能性を信じているから。

話せばわかると思っているから。

しかし時には切り捨てて前に進むこと。

切り分け、諦め、切り捨て、次へ行くこと。

 

全部忘れずに、認めた上で、置いて捨てていこうと思います。矛盾しているけれど、自分が精神的に健康でいるためには、多くを抱え込まないことが重要だから。

 

 

 

 

許すということ

こんばんは。左手ちゃんです。

色々ありますがなんとか生きています。

今日は大層な題名ですが、いつも通りたいした話ではありません。

 

友達と、就活の時にクソほどやりまくった性格診断テストのようなものをやってみようか、という話になり、それ系の診断をやってみたのですが、自分には「許し力」が圧倒的に足りていないようだ、ということがわかりました。

(ちなみにどの程度足りていないかと言うと、棒グラフで各数値が伸びているのですが、「あれ?画面のゴミかな?」と思うほど、ありませんでした。多分最小値。)

 

許すことが苦手であることはなんとなく感じてはいましたが、まさかこれほどとは思いませんでした。

 

最近仕事で関わっている上司の1人が仕事ができるとは言えないような人(オブラート)で、私はそれでいちいちイライラして、でも言い方がきつくなってしまっている自覚があって、自分の怒りをコントロールするということについて調べていました。いわゆるアンガーマネジメント、というものです。

(大抵、怒りのピークは6秒、とか言ったようなことが書いてあるのですが、6秒で怒りが収められたら警察も戦争もないだろ、と思うくらいには許し力が低いです。)

 

怒りをコントロールするということは、許すということでもあると思います。そもそも寛容な心があれば、怒りも発生しないはずです。

 

しかしここで自分との矛盾が発生し苦しみが出てきます。

 

上記の理屈からすると、他人を許せなかったり、怒りを持つことは寛容でない、心が狭い、人間として不出来だ、ということになります。(これも一種の思い込みかもしれませんが…)

 

私は他人のミスや不真面目にとてつもなく不寛容な人間であるため、はっきり言ってとても短気です。表立って怒りを、怒鳴るという形で相手にぶつけることは絶対にしないようにしていますが(反面教師です)、ものすごく短気なのに、それを内側に溜め込むとどうなるかといえば、当然ストレスがものすごく溜まります。

ストレス耐性が低いので、ストレスが溜まると激しく泣いたり怒ったり、とにかく疲れるような感情の消費の仕方をします。家で1人で。

自慢できることではないですが、何を隠そう診断では、ストレス耐性と体力が10点ぶんしかないため、感情を激しく動かすことで、ものすごく体力を消費します。(ものすごく疲れる)

そうして、自分が激しく他人に怒ることや、他人を許せないことに対して、今度は自分の不寛容に対して許せなくなり、怒り始めます。

 

人間としてものすごいバグを抱えて生きているな…と自分でも悲しくなるのですが、そうなると「自分死ねーーーっ!!!」という風に癇癪を起こし、最終的にはリストカットしたりします…(すみません)

 

結局自分の怒りの根源に何があるかと考えると、その先にはいつも父親(もう死んでますが)がいて、私は幼い頃から父親の不真面目で母親が割を食っている、損をしている場面を沢山見て育ちました。もちろん損をしたのは母親だけでなく、それに巻き込まれた私含む家族も同様です。

(そう考えると、自分を生み出した存在である父親が間違っていて、だから私は、生まれたところから間違いで、、という負のループに陥ってしまう事がよくあります。よくないね。)

 

相手を許すことで自分が損をする、と思いました。

だから、怒ってしまった話を他人にすると、よく「それは○○さんだからしょうがない」と言われるのですが、それを聞く度に、「なぜ私は何も悪いことをしていないのに、悪い事をした相手を許さなければならないのか」という気分になっていました。(実際、今も腑に落ちてはいませんが…)

 

しかし、友達の話では、どうやらその理屈は違うようなのです。

 

許すというよりは、動かしようがない事実を認め、諦めて次へ向かうこと。

 

怒るということは、何かが自分の思い通りに動かず、それをコントロールしようとしているということでもあると思いますが、しかし怒っても悲しんでも、動かせないものはあります。

どうしようもない人のために感情を激しく動かしてエネルギーを使ってしまうことよりも、自分がより前に進むことにエネルギーを使う、ということ。

 

怒りを持続させないように、他のことに気を向けるということ。切り替えて次に向かうこと。

(余談ですが、診断テストでは転換力も低かった…)

 

結果的に自分の感情をコントロール出来ずに損をしてしまうよりも、どうしようもなかった事実を置いて先に進むこと。

 

もう父親は死んでいるから、怒っても罪を償わせることは出来ないし、謝らせることは出来ないし、どうしようもない、過去起こってしまったその事実は、何であっても動かせないものだから、そいつを置いて、私は1人先に進んで行きます、という、要は考え方の問題ではありますが、それが大事だということのようです。

 

そしてその過程で自分が怒っている、ということも事実として認めること。

怒りたくないと思えば思うほどストレスも溜まるし、怒る自分に対して不寛容になります。自分に不寛容になると、余裕がなくなり、またイライラします。

そうではなく、まず怒る自分を許すことからはじめる。自分を許さなければ、当たり前ですが他人を許すことも難しくなります。

 

歌詞やドラマで使い古されているセリフに、「自分を愛せない人は他人も愛せない」というものがありますが、まさにその通りだなとしみじみと感じます。

 

まーーしかし散々メンタル向上を目指していて、自己肯定感をあげるとか、そういう試みをしていなかったわけではなく…。

 

最近SNSで見た知見によると、人間は自分のことを物理的に愛するのは不可能らしいので、自分の好きなことを増やすのが良いようです。

 

少し話が飛びましたが、自分ではなく、他に愛を見出すことが自分を受け入れる力になるわけです。人間って本当に不思議ですね。結局本当の本当に1人で1つでは生きていけないわけだ。

 

いつも通り話が長くなりましたが、

認めること、許すこと、受け入れること、諦めること、どれもおなじ話です。

 

シンプルに自分にも他人にも優しく生きていければいいなって。今日はここで終わりです。

 

 

 

 

 

 

 

 

人間の皮膚硬すぎワロタ

どうも、お久しぶりです。左手ちゃんです。

 

もう死なないと何回言って、何回死のうとして、何回死ねなかったかもうわかりません。

これには槇原敬之も真っ青。

もう死のうとしないなんて、言わないよ絶対〜!!!!

 

いよいよこのブログも気が狂ってきました、

知り合いに見られていると思うとまた死にたくなってきますが、見られていると思うことで自分を戒める意味も込めています。

 

まずは前回の記事の話をします。

毒親が無事灰になりました。しかし結論から言わせてもらえば、灰になったところで何も変わりませんでした。

 

色々ありすぎてどこから話せばいいか分かりませんが…。

まず葬式についてですが、当然の事ながら母親が信仰している宗教の元執り行われました。最悪です。

 

父親が死ぬ前、父親本人から「(母親の信仰している)宗教は信じていない」という旨のLINEが来ていましたが(無視しました)、そんなことは全く関係ありません。人が死ぬと本人の意思は関係ないということをはっきりと思い知りました。

その上最悪だったのが、宗教団体はたいていの場合、「この宗教をやっていたらこんなにいい事があった!宗教のおかげ!(要約)」みたいなことをその団体の中で行われるイベント(=集会)で話す機会があります。

それを、1番上の兄の嫁が、父親について話を書くことになったようで、後日母親から送られてきたものを、25736871周まわって面白かったので、他人の地獄として共有しておきます。(知り合いの何人かにも見せましたが)

 

1番面白かったところだけ抜粋すると、「父親が死んだ悲しみよりも、○○様が父親を成仏させて頂いた有り難さが勝った」という文です。何が面白いか(やばいか)を説明しなくても、倫理観のない人間でなければわかると思うので割愛します。

そもそもの話うちの父親は家族から嫌われていたはずで、感動したり涙を流したりすること自体が私にとっては「いや意味わからん全然」案件であるのですが、母親は終始葬式の間泣いており、子供に堂々と不倫してます宣言をしていたのに、お前はどうしたんだと心の中で257697568回思いました。

 

私は父親にされたことやその時に覚えた憎しみも、まだありありと思い出せるため、父親が灰(というか骨)になっても、なるべく近づきたくないなという思いは全く変わらなかったですし、葬式のルールとして、「最後にご親族様から一言ずつ…」というアレも、私は「じゃあね」と言っただけでした。

家族が悲しんでいるのが大変胸くそ悪かったし、1番上の兄が「僕達のために沢山我慢してくれてありがとう」と言ってアホみたいに泣いていた時、「一体なんのことを言っているんだろう…酒もタバコも女も(書くの忘れてたけど、キャバクラとかにも普通に行ってた模様)我慢できず、労働もろくにしていなかった上に迷惑しか掛けていないのに…どういうこと??」

という怒りを抑えるのに大変でした。一体何を我慢したのか、何もわかりませんし、実際誰もわかっていないと思います。

 

母親も「お勤めご苦労様でした」的なことを言っていましたが、何が「お勤め」で何が「ご苦労様」

なのか、私にはさっぱりです。

 

本当は「死んでくれてありがとうー!じゃあね!」とでも言おうと思ったのですが、親族の手前やめました。(不謹慎ポイント高すぎるので)

 

会社の人が葬儀に来たのですが、後日かなり時間が経ってからうっかり「葬儀に行って様子を見てきました」メールを見てしまい、そのメールの中に「思ったより元気に振る舞われているご様子」と書いてあり、私の気が狂っていることが世間にバレてしまいました。ショック!

 

父親が死んでとりあえずお金出たので、母親から子供に50万円ずつ配られました。

めでたい話ですね。遺産相続もまだなので、これから楽しみです。

50万円を母親から手渡された時、「今まで本当にお金がなかったのよ?隠してたわけじゃないからね!」という前置き付きでしたが…。

言い訳をすると余計に怪しいというのと、50万円プラスちょっと高そうな化粧品を私に誕生日プレゼントとしてくれたのですが、(ものに罪は無いのでありがたく使っています)まるで、「誕生日プレゼントがなかったのは今までお金がなかったせい」とでも言われているようで、果てしなく気分が悪かったのを覚えています。

 

それと、次男夫婦が葬式に来ました。

そうです、あのネットカップルです。

葬式に出るだけ出て、何も挨拶はせずに帰っていきましたが、次男のモラハラ体質は変わっておらず、葬式中隣に座っていた私に密着して腕を小突いてきて、「お前と会うの久しぶりだなw」と話しかけてくるなど、空気の読めなさや、私に対してしたことをまるっきり謝ろうともせず親しげに接してくるなど、無神経もいいところでした。長男や母親に、「ずっと○○(私)と話したがってる様子だったけど」と言われましたが、それは私は十分に理解しているし、うんざりでした。

 

葬式の時の話はとりあえずここで終わりですが、最初に戻ると、父親が死んだところで私の精神病は治ることはなかったし、それどころか最近は夢に出て怒鳴られたこともあって、むしろ葬式をしたことにより、より鮮明に思い出してしまうことで症状が悪化したような気さえします。

 

もう葬式の話も父親の話も本当にどうでもいいのですが、とにかく今日死にたくなって、もう「死にたい」を自分の中で煮込みすぎて3ヶ月くらい置いてしまったら、死にたい理由すらよくわからなくなってしまって、結構本気で死のうとしたりとかしていました。

 

何日か前からリストカットのようなこと(市販のカミソリはたいてい皮膚が切れないようにガードが付いていますので、実際に皮膚に刃物を強く押し当ててもめちゃめちゃ痛いだけで全く切れません。安全!すごい!)をしていましたが、ついに、という感じで久しぶりに包丁を手に取りました。

 

しかし、腕に包丁を当てた時、手が震えたし、力が入りませんでした。

遺書も途中まで書いてあったので、死ぬ準備として最後まで書き切ろうと思ったのに、頭がぼーっとしてまともに何も考えられなくなりました。(遺書セットに関しては、父親が死んだ時、遺書がないと遺産相続の時超困るということがわかったので買いました)

 

人間にはたぶん防御反応のようなものがあって、例えば初めてコンタクトを入れようとした時目をつぶってしまったり、何か自分に危険なことがあると、それを止めるようにできているようなのです。だから力を入れようとしても、身体が止めてしまう、言うことを聞かないというのか、とにかく深く刺すことが出来ませんでした。

 

あとで調べてわかったことですが、そもそも自殺ってめちゃくちゃ難しいです。(あたまわるそ〜)

成功率10パーセントです。残りの90パーセントは後遺症とかケガとか、そういうのを抱えながら生きないといけないということです。受験かよ。

しかも、家族によって強制的に入院させられる模様。これが一番私にとっては避けたいことです。

結論、人間は簡単に死なないようにできているようですので、死にたくなっても死ぬのはおすすめ出来ません。

 

タイトル回収です。

人間の皮膚硬すぎワロタという話ですが、そういうことです。ギターとかやってる人って、やってると指だんだん硬くなってきますよね、たぶんリスカも同じで、傷つけたら傷つけるだけ固くなってくるんじゃないかと思います。本当に酷いと思いますが、自分の意志関係なく人間は産まれてくるのに、どうして簡単に死ねるようにできてないんだよ。ムカつくな。

 

人間の皮膚はとても丈夫で、なので私はいつも通り人間としてはギリギリの状態で毎日生きてます。もちろんギリギリだって会社でニコニコしながら仕事をしているし、ああそれは、多分反面教師とも言えることなのだと思いますが、ちゃんとしていない自分が許せないので、「働くか」「死ぬか」の二択になっちゃうんですよね、どうしても。(だからすぐ死にたくなるんですが…)

 

今回結構いつもより本気で死のうとしてみて、「マジで死ねない(少なくとも私は)」ということがわかったので、忘れないように文章として残しておこうと思います。

 

コロナ禍で生きる希望とか失われがちですが、死ねないことがわかった以上、生きるしか現状道がないので、何か希望を見つけて生きていくことにします。

 

その何かはまだ見つかっていないので、すぐ死にたくなる…(以下、ループ)

 

ループって怖い!

また死にたくなったら書きに来るかもしれませんが、そのときは笑ってください。

 

今日はこの辺で終わりにします。さよなら〜

 

 

 

毒親が灰になるまで

お久しぶりです。

 

遂に父親が死にました。

原因は酒による肝硬変で、前にも1度なっていた病気でした。

酒の飲みすぎで前日も母親と喧嘩していたようで、呆れや怒りしか感じません。

 

毒親は死ぬまで毒親だったというわけで、私は完全に、父親を許す機会を失ってしまいました。

生きて謝ったところで、許すこともないと思いますが、私がなぜこんなことを言い出したかといえば、私が抱えている精神疾患(正式な診断はありませんが、パニック障害は確実だと思われます)について、トラウマの治療だとかはその対象を許すことで癒しを得ることがオーソドックスな治療法だからです。

私は、今は許すことが出来なくとも、いつか許すことができたらと思っていましたが、もう永遠にその機会は巡って来ません。

 

なぜなら勝手に死んでしまったから。

死ぬまでバカは治らないとよく言いますが、本当に死ぬ直前まで、私の中に憎しみしか残していかなかった。

 

私のこのやり場のない怒りや悔しさはどうしたらいいのでしょうか。「ころしてやりたい」と思っても、もうそれすら出来ません。

私はアレの精子から生まれてきたという事実が、気持ち悪くて仕方がありません。

その事実だけは、一生変えることができないということに、悔しさや怒りが湧いてくる。

 

忌引で休暇を貰わなければならないため、会社の人に報告をしたら(それがふつうのことなので、その人達の優しさが悪くないということは頭では理解していますが)、とても可哀想という目で見られ、私の「悲しみ」を決めつけられ、まるで私が悲しんでいないことが悪いかのようで、気が狂いそうです。

 

母親も、父親に黙って不倫していたくせに、前日まで父親の過失で喧嘩していたのに、父親の死を一日中悲しんでいるようで、意味がわかりません。理解できない。一体何を後悔することがある?お前たちは自分にされたことも自分でしたことも忘れて人が死んだから悲しいと????わけがわからない理解できないし理解したくもない、私は悲しいなんて思わない、複雑な気持ちはあれど、それはもう気が狂いそうだからであって、それだってお前らのせいだし今から葬式が憂鬱でならない。

 

絶縁した(笑)次男と連絡が取れないということで、長男に連絡してくれないかと頼まれたため、連絡したところ、

・終始マウントを取られる

・「俺の嫁が許せば、(九州の地名)に遊びに来てもいいぞ笑」

・世間話の一環でハラスメントを受けて部署異動した旨を伝えると、「お前にハラスメントするなんてそのおじさんも相当変わってるな笑」

・「兄弟で結婚してないの、お前だけだもんな」

・「お父さんも可哀想だよな〜あんな頭おかしい奴らと一緒に住んで笑」(こいつは絶縁宣言をして出ていった割に父親に金を無心し、父親に無心した結果そのしわ寄せが母親に行っていたが、それを全て忘れているのか、母親と長男の連絡を全て無視し、葬式の一切を向こうに任せているのにもかかわらず、このようなことを言っている)

・「お前はそういうやつだと思ったよ、でもお前の遺伝子の半分はお父さんからできてるんだぞ?笑」などと言ってきた(それはわかっているが、私はお前などに「そういうやつ」として分かられたくはない)

・引っ越す際のごたごた(「お前は死んだ方がいい、ゴミ」と私に言い残し家を出ていったこと)を一切なかったことにされる

・なんの断りもなしに急に電話がかかってきたのは先日だけでなく、次男の結婚式の時にも私に電話がかかってきた

・相手の都合を何も考えていないため、用件も言わず急に電話をかけてきたわりに、自分が唯一まともだと認識している家族と久しぶりに世間話がしたかっただけのようで、3回くらい話を切ろうとしたが、最近やっているゲームの話や、どこに住んでいるのか、という話を延々と続けようとした

・母親と兄を悪者にし、俺はまともだということを終始アピールしていたが、葬式の準備や母親のケアを全て長男に任せているくせに、よくわからない

・(某宗教団体)で葬式をするなら行きたくない、俺は行くか迷っている、お前はどうする?と聞いてきましたが、同窓会じゃないんだから、誰が行くとか行かないとかで決めるのではなくて自分の意思で行くか行かないかくらい決められないのかこいつは

という感想になり、ますます気が狂ってきました。

 

総括すると、父親の葬式をするということは私がなるべく関わりたくないと思っている家族と向き合わなければならないことであり、周りの目や認識がさらに私の「ふつう」を痛めつけ、なぜか父親の被害にあった家族までも父親の死を悲しんでいることが理解できないため、気が狂ったということですが、毒親を親に持った人達の書いた記事等をみると、「とりあえず後悔のようなものを抱くのが嫌なので、やった感とかを味わっておきたいという意味で最期まで見届ける」という人と、「絶対に関わりたくないので遺産もいらないし葬式も行かない」という人に分かれるようでした。

私は前者ですが、もしかしたら、父親(全ての元凶)が灰になるところをこの目で見られたら、憎しみや怒りも一緒に消えていくのではという淡い期待を胸に、見届けようという思いです、毒親が灰になるまでは。

 

毒親のもとに生まれメンヘラに育った私

お久しぶりです。こんばんは。

 

色々とあって、会社で人が見ているところで過呼吸を起こしてしまい、今は部署異動をしてほとんど平和に暮らしているところです。

 

こんな、3行で誰にでも、「あぁ、こいつはメンヘラだ」とわかるような自己紹介、私だってしたくはなかったのですが、事実なので仕方がありません。

 

しかし私にも、メンヘラを治さなければならない時が来た。これは決意の文章なので、まだ治ったわけではないので悪しからず、治ったと思って見に来た人、ごめんなさい。

 

なぜメンヘラを治そうと決意したかといえば、いち社会人として、自分の精神をコントロールできずに他人に迷惑をかけること、自分の感情の起伏の激しさにそろそろ疲れてきてしまったこと。理由は色々ですが、人としてちゃんと自立して、一人で立って生きていけるようにならなければ、私の理想とする生活は実現不可能だからです。

 

ま〜散々書いてきたのでこの記事では割愛しますが、いわゆる毒親のもとに育った私は、ず〜〜っと拗ねてきました。

 

「だって私が今こうして精神病チックになっていることは、全て親が原因なんだから、私が悪いわけじゃないじゃん!どうしようもないじゃん!誰が責任取ってくれるんだよ!」と。

 

確かにその通りだね!

でも、どうしようもないわけではないんです。

育ってきた環境がどうあっても、私は今ここにこうして一応経済的に自立し、一人暮らしをして、会社で働いている。休日に遊ぶ友達もいる、お試しだけど、彼氏もいる。一応まともな人間の皮をかぶって生活することはできている。

 

だから、私を選んでくれる人たちのために、私は一人で立って生きていける人間になる必要性がある。なので拗ねている場合ではない。

 

そもそも拗ねていたところで何か変わるわけでもないし、結局、親に原因があるから、誰かに何かをされたから、そうやって思って生きていたら、私がまた違う誰かに同じことを繰り返してしまう危険性がある。例えばDVとかね。

 

私はそれも避けたい。だから、私がメンヘラを卒業しないと、きっといつまで経っても自分がずっと憧れてきた「あたたかい家庭」を築くことは不可能だ。これは断言できる。

 

そこで、メンヘラから脱した人のブログなどを読みあさり、どうすればメンヘラひいては精神病を脱出できるのか、方法を色々と探ってみた結果、以下のことは私でも試せそうだったのでここに記す。

 

 

1、深く考えないようにする。

趣味など没頭できるものを作ることで、ネガティブなことを考える隙を与えない。メンヘラは暇人が多いとか言ってる人がいたけど、そうではなく、何もしない時間があるとすぐ不安なことについて思い出したり考えたりしてしまう心配性がメンヘラに多いだけ。忙しかったとしても家で一人になる時間や、何か深く考えてしまうような時間を脳に与えてしまったら、病みタイムの始まり。とにかく考える隙がないようにひたすらやることをつっこむ、一番いいのは自分を大切にしてくれる友達に会うことだけど、それがだめなら新作のゲームをプレイするとか、とにかく不安なことについて考えないようにすることが一番大事。

 

2、依存先を増やす。

「依存しないようにしなきゃ」と思えば思うほど病んでしまうのがメンヘラ。そうではなく、依存先を増やすこと。それが自己肯定感の向上にもつながるし、誰か一人だけに大きな負担をかけることもない。気持ちを分散させることが大事。誰か一人に強く依存しすぎると、その人がいなくなると途端に崩れることがわかっているため、その人の言動に一喜一憂し、その人の機嫌を取ろうとすることになり、つまりコントロールできないはずの他人の機嫌をコントロールしようとして、それが思い通りにいかないとイライラしたり病んでしまったりするため、一人だけに依存するのは自分にとっても相手にとってもリスクが高い。しかし依存先を増やしておけばリスク分散ができ、自分にはこの人もこの人もこの人もいる!と考えることで、自己肯定感を上げる助けにもなる。

 

3、精神科に行く。

どこも初診が電話予約なのは、本当に精神病患者を迎え入れる気があるのか?という気しかしないが、おそらくここまできてしまった場合、薬に頼らざるを得ないのだろうと思う。メンヘラを本格的に治したいと思ったら、徹底的にやらないと再発する可能性がとても高いだろうし。したがって、自分が考えた治療法やメンタルトレーニングのみでなく、しかるべき第三者機関のもと、正式な病名を診断してもらい、それに合った治療が必要なのだろうから、私は勇気を出して電話予約をするべきなのだ…怖いけど!

 

以上、メンヘラを治すためにできそうなこと、というかやろうとしていることリスト。

 

一歩ずつ頑張っていけば、着実にメンヘラは治るはずだから、それを信じることもきっと、治すことにつながっていると思う。

 

私はもう23歳になる。

 

だからもっと自分の目指す強くてかっこいい落ち着いた30歳になるために、私は今変わらなければならないと思う。自分を大切にしてくれる人たちや、自分の未来のために、今でなければ、遅い気がするから。